鄙乃里

地域から見た日本古代史

聖徳太子の「伊予の湯」の碑はどこにある?

 聖徳太子の伊予来訪

 奈良時代に成立したとされる『伊予国風土記逸文には、古代の天皇らが伊予の湯を五度(いつたび)訪れたことが記されています。
 その三度目に聖徳太子高句麗の恵慈僧と葛城臣烏那羅(かつらぎのおみおなら)を連れて夷與(いよ)の村を訪れ、そこで伊予の湯を称えて詩文を作り、碑が建てられたと書かれてあります。   

 その古代「伊予の湯」について「道後温泉」のことだと解釈している人がたいへん多いのですが、残念ながら、古代「伊予の湯」は道後温泉ではありません。

 

 道後温泉について

 道後温泉は746年に伊予国守の越智玉澄(おちたまずみ)が発見して、行基菩薩と共に開発した温泉との史料が『伊豫温故録(続編)』にあり、明治27年道後温泉本館建設時まで実際に使用されていた古代の湯釜が、道後公園内に「湯釜薬師」として祀られています。

 松山市教育委員会の立札によると日本最古の湯釜とされ「天平勝宝年間(749~757)に造られたと伝えられる」との説明です。また道後温泉旅館協同組合のHPには、湯釜は「今から約1250年前、奈良時代行基が作成」したとも書かれています。

  『続日本紀』に行基菩薩は749年2月2日に遷化したと記されているので、この年はたしかに天平勝宝元年に当たるのですが、遷化の2月は改元前の天平年間で、行基の生存期間中に造られたのなら湯釜も正しくは天平年間の製造といえるでしょう。

 その年は越智玉澄が温泉を発見してから2年余になりますが、そのころに、この湯釜が完成したものと考えられます。越智玉澄は神の眷属(けんぞく)である白鷺に導かれて湧泉を発見したと史料中に記されていて、道後温泉の白鷺伝説と重なるものです。

 
 他方、古代「伊予の湯」は「熟田津石湯」と呼ばれ、斉明天皇の征西時に「熟田津の石湯に泊まる」と『日本書紀』に認められるように、道後温泉よりも、もっと古くから存在した湧泉です。

 しかし、この熟田津石湯は天武天皇13年(684)の白鳳大地震(東・南海地震)で壊没し湯が出なくなったようです。さらに天平17年(745)の大震(中央構造線活断層帶の地震などが想定され『続日本紀』にも数日にわたる地震の記録があります)で東南の山岳が崩れ、完全に湮没(いんぼつ)・荒廃したといいます。そのため越智玉澄はこれを憂えて山野の神に祈り、その代わりとなる温泉を探していました。そして、やがて飛来した白鷺に導かれて発見・開発されたのが、今の道後温泉だと史料に書かれています。その湧泉の場所は鷺谷といって、今の湯神社があるあたりだそうです。


 以上が「鷺湯(さぎゆ)」と呼ばれた松山市道後温泉の始まりなので、それ以前の熟田津石湯(即ち『日本書紀』の古代伊予の湯)は松山市ではありません。それは実際は道前にある西条市の話なのです。


 本テーマについては以前にも詳しく紹介していますので、ここでの詳細は省かせていただきますが、興味と時間がある方は下記をご参照ください。

verdawings.hatenablog.com

 

verdawings.hatenablog.com

 

 熟田津石湯について

 そこで今度は西条市のほうの話になりますが、西条市洲之内にある橘新宮神社社家の『旧故口伝略記』という文書の写しに「橘の岡」に関する以下の記述があります。

昔、此岡と申す地は南石湯に続き、東に鴨川の一流を受けて、岡の北をめぐりて西に流れる。西は大江の湊の上にあたるは琵琶湖なり。是橘天王の橘岡を宣りたまふとなり。昔の名は石湯の岡と申せしとぞ。此処田地となりて後時(のち?)俗に岡山崎と申す。只今は俗に山崎と申す其所也。

                  (真鍋充親著『伊豫の高嶺』より)

 下図はこの記述を参考に略図化したものです。

 
 ここに登場する橘天王(たちばなてんのう)は、諸々の史料や状況から斉明天皇のことと考えて間違いないと思われます。百済救援の征西時に熟田津の石湯(いわゆ)に逗留したのは周知のことであり、その後の朝倉橘広庭宮に行宮を営んだのも斉明天皇です。ですから「橘広庭宮」は斉明天皇の行宮の意味なのでしょう。

 上記の「橘岡」は、橘天王の宣言までは「石湯の岡」と称していたと伝えているので、それが「橘岡」に名称変更されたのは斉明天皇熟田津逗留以後の話になります。


 したがって聖徳太子の時代には石湯の岡と呼ばれていたわけで、聖徳太子の詩碑はこの岡の付近に建てられたように思われます。碑石の建立者は、おそらく当時の伊予の有力者であった小千益躬(おちますみ)公ではないかと考えています。「我が法王大王(のりのきみのおおきみ)」と記されているように、小千益躬公は仏法の帰依者でもあったから聖徳太子をこう尊称したのではないでしょうか。

 その碑石の場所を以前考えたときに、『釈日本記』の引用文には「湯の岡の側らに碑文を立てき」とのみ書かれていたので、最初は、湯の岡そのものが伊佐爾波の岡なのかとも考えていました。しかし『萬葉集註釈』の引用文には「湯の岡の側らに碑文を立てき。其の碑文を立てし處を伊社邇波の岡と謂ふ。」と、より詳しく記されています。そのため現在では、湯の岡から少し離れたところにある磯野の岡のことではないかと考えるようになりました。

 磯野の岡は前を流れる加茂川の河岸段丘で、往古から伊予の古社である伊曽乃神社が鎮座しています。その付近には弥生時代縄文時代の遺跡もあります。「磯野神」は文献上では、766年に他の3社と同時に本邦で最初に神階が与えられた神社で、「爾波(庭)」は「野」の意味とも受け取れます。祭神は天照大神と、当地方を開拓した武国凝別命(たけくにこりわけのみこと)が奉斎されていて、斉明天皇はもちろん聖徳太子も、古代「伊予の湯」を訪れたのなら立ち寄ったものと推察されます。したがって、湯の岡の側らにある磯野の岡で詠まれた詩文を、伊予の湯来訪記念として、案内をした小千益躬公が碑石に刻んで建立したのではないでしょうか。

 

 この写真は伊曽乃神社鳥居前から見た石鎚山頂です。

 万葉歌人山部赤人は「伊豫の高嶺の伊佐爾波の岡に立たして…」と、見たままを写実的に表現しています。それが石湯の岡(橘岡)の位置からだと、前山が壁になって石鎚山は直接には望めないからです。この一帯の地は古くは神野と呼ばれて、伊曽乃神社の地は往古から石鎚山の遙拝所だったと推測され、こちらのほうが、赤人の「伊佐爾波の岡」にはぴったりの場所です。

 

 おそらく『伊豫の高嶺』の著者・真鍋氏もそのように考えられたものか、伊曽乃神社も調査されています。下の写真は伊曽乃神社に伝わる「イワツチの神の投げ石」というもので、石鎚山から飛んできたという民話があり、真鍋氏が同行の仲間とこの石を熱心に観察されている写真が本書に挿入されていました。

 

左:石鎚山の投げ石  右:伊曽乃神社  

 そのため自分も一応は調べてみたのですが、自然石特有の凹凸や皺状の細線はあっても、文字と考えられるような痕跡は見つからなかったです。いつの時代の石か分からないですが、こんな丸い石に碑文が彫れるとは思えないし、『伊予国風土記逸文には「碑文を立き」と明確に書かれているので、積んだ石ではなく、やはり、表面が板状の石を建てたのでしょう。

 弥生時代後期の石棺の蓋には平石が使用されて線刻が施されています。飛鳥時代の寺院の礎石も穴がきれいに削られています。なので、加工は当時でも十分可能だったでしょう。ほかに加茂川から平たい青石を採取して来てもいいはずです。

 とにかくそれ以来、周辺の神社に参拝するときには、石の積み石や、藪の中の捨て石も注意して観察するようにしています

 

 聖徳太子の碑(いしぶみ)はどこへ行った?

 ただ一方では、碑文はもう西条市にはないかもしれないとも考えています。

 それというのも、古代「伊予の湯」が湮没したあとは、その地に碑文は不要だからです。過去の埋もれた栄光の湯を記念しておくよりも、新しい温泉を過去の栄光で飾ったほうが石の利用法として有意義なのではないか。そのように考えた越智氏が道後温泉へ運んでいった可能性は低くないでしょう。伊予国守として、古代天皇らの「伊予の湯」を復活させたいとの願望があって、歴史ある貴重な碑文を松山市に移動させたことも考えられます。越智玉澄が鷺湯を発見したのは熟田津石湯の湮没から1年7ヶ月後のことであり、嘘か真か、松山市にもかつて、その碑文が存在したという伝承が伝えられているのです。

 その中には、寛政年間頃に松山人道後温泉側らの畑から埋もれた碑石を掘り出し、そこに碑文の文字を発見したが、掘り返したため温泉の湯が濁った。それで住民の猛反対があり、また埋め直したという話があります。これは江戸後期の医者・橘南谿(たちばな なんけい)の『北窓瑣談(ほくそうさだん)』という随筆に載るもので、それも、彼が会った松山人がそのように語ったというような話が書いてあるのです。

 でも、せっかく掘り出したのだったら、碑石の形状や行数や文字の配置をよく調べて、書写するなどの処理を終えてから埋め戻すのが常識でしょう。それもなくて、しかも、それ以後はどこに行ったか不明になったというのだから、かなりあやしげな話です。

 また河野氏湯築城を造るため碑石があった岡を切り崩したときに、碑石をどこかへ移動させたのではないかという話もあります。

 ほかにも、道後にある河野氏ゆかりの義安寺の地中から掘り出した薬師如来の台座がその碑石ではないかと疑われたが、明治の神仏分離令の機会に調べてみたところ別に何もなかった。台座の地中深くまで掘ったが、無駄だった…という話も『伊豫温故録』に採録されています。いずれも道後温泉が熟田津石湯だと信じるあまりのマニアックな妄想に過ぎないのではないか…と疑われるような噂話ばかりです


 とはいえ、越智氏がその碑石を西条市から松山市へ運んでいったのなら、松山市から碑石が出る可能性は当然ながらありうると思います。

 「いやいや、そんな碑石は元から存在しない。聖徳太子の伊予来訪なんて『日本書紀』にも書かれていないのに、ぜったい創り話だよという人もおられますが、あんな難しい詩文を創作できる人物などざらにはいないでしょう。おまけに恵慈僧や葛城臣まで連れている話だし、山部赤人も万葉歌に活写しています。それなら、赤人も誰かに騙されたのでしょうか? 国史だからといって一から十まで記すわけにもいかないはずです。太子の伊予来訪にもそれなりの目的はあったと思いますが、どちらかといえば、多忙な太子にとって、つかの間の癒やしの旅であり、政治向きの出向とは次元が異なるように思うのです。『伊予国風土記』の編述者にしても、どこかで実物を見たか、写しが残っていないとしたら、創作では書けないような内容で

 そんな碑石の実物が出てくれば大発見なのですが、残念ながら、今のところ幻のツチノコを探すようなもので、その蓋然性は低いといわざるをえません

 

 終わりに

 現在の通説では「熟田津」も古代「伊予の湯」も「伊佐爾波の岡」も、すべてが松山市のこととして解釈されていて、専門の解説書でも道後温泉付近と平気で書かれているのが実情です。しかし、それは松山市に有名な道後温泉が現存するためで、ほかには何の理由もないはずです。たしかに、県外の方がそう誤認するのはやむを得ないでしょうが、そうした解釈はただ既説に従っているだけで、ぜんぜん実地に調べたものではありません。


 伊曽乃神社の磯野台地が「伊佐爾波の岡」の有力候補という事実は、地元の伝承や地勢や地誌などを注意深く研究することでのみ、徐々にその信頼度が高められるはずです。
 Googleマップ(航空写真・ストリート・ビュー)を見てください。石湯行宮跡の「御所殿木」も、石湯八幡跡の「萬頃寺」も、熟田津跡の「西田」も、「伊予の湯」名残の「湯之谷温泉」も、天智天皇駐蹕(ちゅうひつ)の「御所神社跡」も、もちろん伊曽乃神社も全部がそこに見つかるでしょう。人の解釈はどのように揺れ動いても、霊峰石鎚山と熟田津の地勢は古代から動かないのですから。

 

 

 


左:湯之谷温泉  右:御所殿木

 石湯八幡旧跡(萬頃寺横)現在は橘新宮神社境内へ

 石湯八幡旧跡を説明する標柱


 御所神社旧跡を示す標柱(加茂川左岸)現在は他の場所に遷座しています





石鎚神社の春祭り

 新年早々の能登半島地震は衝撃でした。それにともなう航空事故も起きています。非常時こそ連絡を密に取り合って気を引き締めねばなりません。被害に遭われた方々には心よりお見舞いを申し上げます。

 被災地の皆様のご健康と、一日も早いインフラの復旧をお願いします。

 

 本年もぼちぼちですが、投稿を続けていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。