八幡宮は全国どこにでもあり、自分の町にもある。
全国一、二の神社数を誇る八幡神と稲荷神だが、その祭祀を創始したのは秦氏だと伝わる。
しかし八幡神を奉斎した秦氏と、稲荷神を奉斎した秦氏は、はたして同じ秦氏だったのだろうか? というのが、今回のテーマである。
八幡神は伝承で「新羅の神を祀る」とされているが、聞くところでは八幡神を祭祀した秦氏も山背の葛野秦氏の一流だという説もあるそうだ。つまり、祖先が弓月君である。
しかし『日本書紀』によると弓月君らの秦氏は3年ほど加羅国に留め置かれてはいるが、百済からやって来た集団(百済人ではないが)で、元からの新羅の住民ではない。新羅の神を祀る理由はないと考えられる。なのになぜ、秦氏が新羅の神を祀るとされているのか?
つまり、新羅の神を奉斎していた赤染氏・辛島氏などは、同じ秦氏ではあっても弓月の秦氏ではなく、新羅の秦氏だったからではないか。
その新羅の神を見ても「辛国息長大姫大目尊」「天忍骨尊」「豊比咩尊」と書かれている。この新羅は、神名からいっても、実際は加羅国のことだろう。息長大姫(神功皇后)の名が付加されているが、通常では「オオヒルメノミコト」「オシホミミノミコト」「トヨアキツシヒメノミコト」3柱のことかと察せられる。だとすれば、三柱は渡来した弓月の秦氏らよりもずっと古い時代の神になる。
この三神は香春山の3つの頂にそれぞれが祀られていたとされていて、風土記では神自らが渡ってきた。
上記の話から推論すると、これらの神は八幡神(やはたのかみ)の原型ではあっても、後年いうところの八幡神(はちまんしん)そのものではありえない。現在いうところの八幡神は仲哀天皇以後に日本に渡来した神である。それに弓月の秦氏らがその神を祀るとしたら、八幡神は応神天皇以後でないとつじつまが合わないだろう。弓月の秦氏が古い神を祀る理由などはないのである。
後年になって辛島氏が大神氏・宇佐氏とともに祀るようになったいわゆる八幡神は、宇佐八幡宮のほうであり、「辛島の城に八流の旗を降ろして、我は日本の神になった」とあるので、さらに外来の神が割り込んだものだろう。
それでは最初に香春の三峰で古い神を祀っていた秦氏とは、どこの秦氏だったのだろうか。古い神を祀る秦氏と宇佐八幡宮を祀る秦氏は同じ秦氏なのか、それとも別系なのか…という問題がここで生じるが、それについては、同じ辛島氏だとされているようだ。辛島氏は中央の命により送り込まれた大神氏(また、葛野秦氏も関係するのか?)に最初は抵抗していたが、次第に中央権力に押し切られた形で妥協したのだろうか?
たしかに、稲荷神のほうは葛野秦氏の一族が奉斎した神として間違いないだろう。しかし、もう一方の八幡神は同じ秦氏が祀るといっても、その成立までには複雑な過程が存在するのである。
宇佐神宮の最初期は欽明天皇の時代に遡るといわれている。そのころ朝鮮半島では任那が新羅に滅ぼされ併呑されたため、欽明天皇は任那を失ったことをたいへん怒り悔やんでいた。そのため神功皇后の新羅遠征に大功があった新興の八幡神を、倭国の守護神として新たに豊国に祀ることが考えつかれたように思う。
ところが、その後は八幡神(やはたのかみ)を国内神に置き換えるためだろうか、主祭神が誉田別命に入れ替えられて誉田八幡神になっていく。その伝承によると最初は鍛冶翁がいて、鍛冶翁が消えると金色の鷹が残り、やがて菱形池の畔に3才の童子が現れたとなっている(誉田別命は3歳のとき皇太子になっている)し、息長足姫命は母子神ということから9世紀に合祀されたもので、比売神も都合よく三女神に置き換えられている。
この比売神は実際は3の岳の豊比売、つまり辛島氏にとっての本来の八幡神(やはたのかみ)だった。したがって宇佐神宮の主祭神は応神天皇であるとしても、社殿の中央に祀られているのは比売大神で当然なのである。
そのため、宇佐神宮の祭祀については、たとえば葛野秦氏が神職を務めるとしても納得はできるが、それ以前の香春神を奉斎する秦氏までが弓月の秦氏かというと…当然ながら異論がある。また、どちらも同じ辛島氏が祀っていたのなら、八幡神を祀る秦氏と、稲荷神を祀る秦氏は、出自が異なる秦氏という結論になるのではないか。
『三国志』韓伝には、朝鮮半島に秦韓があり、新羅にも古くから秦の移民が在住していたことが書かれている。一方で、弓月の秦氏は倭国に渡ろうとしたが新羅に妨害され、応神天皇が再度の軍兵を送って海路を開くまでに3年も待たされたとある。新羅がそこまでして渡らせなかったのには、なにか大きな理由があったからに違いない。もしかしたら、弓月の秦氏集団が倭国に渡り帰化すると、倭国に先住する新羅の秦氏が不利益をこうむることを危惧していたのだろうか?
それにしても随の裴世清が(豊国の)秦王国で見かけたとかいう華夏の民は、いったいどちらの秦氏だったのかが…気になるところである。