鄙乃里

地域から見た日本古代史

現代社会と十善戒

 気まぐれ随想録『赤とんぼ』


  現代社会と十善戒  イメージ 2


 今時の若い人たちは幼少期からしっかりした見識を持っていて、テレビ局などのインタビューに対しても堂々と発言できている人が多い。素晴らしいことだ。自分たちの若いころなら気後れし、どぎまぎするばかりで、そんな芸当はとても出来なかった。

 しかし、そんな彼らでも一旦、卒業して社会の荒波に揉まれると、そのころの純真な気持ちを忘れてしまうこともあるのだろうか。昨今は、一昔前では考えられないような事件や犯罪が多発している。その結果、周囲に多大な苦痛と迷惑と損害を与え、自分自身も被害者になったり、加害者になったりして、身を滅ぼす結果に陥いっていくこともある。

 もちろん、それは年齢や職業、社会的な名声や地位には基本的に関わりないが、何故このような悲劇が起きるのだろうか。現代社会における欲望の拡大、孤立化、ネットワークの発達による通信・情報の影響なども指摘されてはいるが、それよりも肝心なのは、彼らがそれまでに真実の言葉というものに、一度も出会えていなかったのが原因ではないかと思うのである。

 たしかに学習や実社会における将来の夢も人生には大切で、誰しもそれらに対する志はしっかり持っていると思うが、その基盤ともなる自分の内面を支える「生きるための哲学」が欠如しているからではないだろうか。

 だから自分の夢の前に大きな壁が立ちはだかって頓挫し、将来に失望すると、いらだつばかりで容易に立ち直ることが出来ない。その結果が自暴自棄になって、すべてが邪魔者のように感じたり「何でもあり」の世の中のように錯覚してしまって、つい安易で間違った道に走ってしまうのかもしれない。


 仏教に十善戒という教えがある。真言密教などでは大切にされていて、勤行集にも納められている。

 不殺生(ふせっしょう)  生きものを殺さない
 不偸盗(ふちゅうとう)  他人のものを盗まない 
 不邪婬(ふじゃいん)  よこしまな行いをしない 

 不妄語(ふもうご) でまかせを言わない
 不綺語(ふきご) うわべだけの言葉は使わない     
 不悪口(ふあくく) 暴言やわるくちを言わない                                   
 不両舌(ふりょうぜつ) 二枚舌を使って仲違いさせない

 不慳貪(ふけんどん) 物惜しみをして欲張らない
 不瞋恚(ふしんい) 怒ったりうらんだりしない
 不邪見(ふじゃけん) 道理を無視した考え方をしない

 これらの言葉の前には、すべて「不」が付いている。そのため十悪が否定されて「十善」になるようである。

 十善戒は身・口・意の三区分に別れていて、モーセ十戒とも共通する内容が半分ぐらいある。
 「仏のように正しく生きようとする者は、これらの悪業を行わない」という出家の戒めと決意の表明だが、やさしくいえば「どなたも仏さまの教えを守って正しく生きませんか」という在家に対する親切な勧めの言葉でもある。

 「不」が付いているため一見、禁則ばかりのようにも思えるが、十悪の否定であるから、実際は善の勧めである。したがって、十善戒を守るかどうかは強制とはならないが、単なる社会道徳的な言葉の羅列ではない。十善戒は人間の性善説性悪説の両方から深く考えられた言葉であり、十善戒に反する行為は、仏教ではすべて自分の身に跳ね返ってくるとされている。

 
 現代社会に生きなければならないわれわれにとって、生活上の専門的な知識や将来の夢はもちろん必要であり大事なことだが、指導要領や宗教には関わりなく、若い頃からこのような人生上の言葉に出会うこともまた、それ以上に大切な財産ではないだろうか。
 たとえ、そのときは十分理解できず、身につかなくても、真実の言葉はいつまでも人の心に残るものなのである。

 

 

                   

(2019年3月18日の記事です)