青蓮院(しょうれんいん)は京都市東山区粟田口にある天台宗の寺で、開基は伝教大師最澄。もとは比叡山にあって青蓮坊といいましたが、鳥羽院のときに青蓮院に変わります。その後の仁平3年(1153)に鳥羽院が京都三条に殿舎を造営、第7皇子覚快(かくかい)親王を出家させて、こちらを青蓮院門跡と称するようになったそうです。
「門跡」は、本来は一門の後継者をいう言葉ですが、とくに皇族や貴族などが住持として入った寺院の名称になり、本願寺などの宗門でも使用されています。青蓮院は天台三門跡中でも第一とされ、皇族(法親王)が入寺して、他の門跡と交代で天台座主を継承しました。
寺院が多数ある京都の中でもとくに青蓮院が思い出深いのは、昼間だけでなく、夜間にも訪れた場所だったからではないかと思います。最初は夜の観光バスで見学し、時期は異なるかもしれませんが昼間にも訪れているようです。
観光客からみると当時の青蓮院は、建物もボロボロで、補修や経営状態も思わしくなく、いつ廃寺になってもおかしくなさそうな感じの寺でした。
広い敷地と古い文化財は所有していても、実際には夜の観光バスの拝観料で、やっとその日をしのいでいるといった印象を受けたものです。
そんなところで寺院の格式とか襖絵の価値について蘊蓄を聴かされてもピンときませんよね。
それは青蓮院だけではなかったかもしれません。観光ルート沿いにある昼間から人気の高い寺院は別にしても、それ以外の多くの寺院は当時は経営が苦しかったのだろうと思います。
高度経済成長期の始まりとはいっても、まだまだ文化財や建物の修理にまでお金をまわせるような時代ではなかったと思います。
部屋と襖絵のたたずまい 中は暗いです
拝観者入口
その第62代天台座主に慈円(慈鎮)がいて、弟子から法然や親鸞が出ています。とくに親鸞聖人はこの寺で出家得度したとされ、境内にある阿弥陀堂は植髪堂(うえがみどう)といって、出家したときの親鸞の髪を保存しているとのことです。
親鸞が慈円の弟子になるため叔父に連れられて青蓮院の門を叩いたときは、もう夜更けでした。
寺方から「もう遅いから明日来るように」と言われた親鸞は、その場で歌を詠んで、すぐに弟子にしてもらえるよう訴えたといわれます。
明日ありと思ふ心のあだ桜、夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは
もっとも、親鸞が慈円のもとで得度したのは、それよりも前だったそうですが、言い伝えでは青蓮院の門を叩いたことになっているそうです。
いずれにしても、その当時の親鸞(松若丸)はまだ9歳でした。今でいえば8歳の子供です。自身の境遇から身についた無常観があったのでしょうが、そんな少年がこんな歌を作るのかと考えると、すごいと思われませんか。のちに一宗を成すほどの人は、やはり幼少期から何かが違っていたのですね。その後、親鸞は叡山に入って20年間の修行に励みます。
法然上人もそうですが、このように青蓮院と親鸞聖人はとくに縁が深かったのです。そのため、明治時代までの本願寺法主はこの青蓮院で得度していたそうです。
青蓮院はたびたび兵火やその他の火災に遭遇していて、宸殿は明治時代に再建、本堂は清水竹林院の建物を移築したものだといわれています。
青蓮院の庭と神輿形燈籠
青蓮院の庭は池を中心にした「相阿弥の庭」や、「きりしまの庭」などがあります。
「きりしまの庭」は小堀遠州作といわれ、庭の斜面に霧島ツツジが植えられているところから、そう呼ばれているそうです。
左の神輿形燈籠(みこしがたとうろう)は好文亭にあって、豊臣秀吉の寄進と伝えられています。
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(夜の観光でもらった絵はがきです)
青蓮院には最近は行っていないのですが、お寺のHPで見ると、ずいぶん立派に変貌しているんですね。襖絵も以前とはまるで違って、開放的で斬新な色使いの絵に入れ変わっています。
あの当時から考えると信じがたいほどきれいになって驚きですが、それを見ると、なんとなくうれしい感じがしてくるのは、何故でしょうか。