関門海峡は古代には穴門(あなと)と呼ばれています。単に狭い海峡だからそう呼んだのか、それとも上古には一部が陸続きで洞門になっていたのか分からないですが、東の水門(みなと)と西の水門の間を穴門と称しているようです。海流や船が東西に出入りするとくに狭い瀬戸という意味でしょう。その最狭部は潮流の動きが早いため早鞆の瀬戸(はやとものせと)とも呼ばれています。
関門海峡 火の山(下関)側から
向こう側の入江は門司港。手前の狭いところに現在は関門橋が架かっていると思います。壇ノ浦の最狭部は600m(門司海上保安本部)しかありません。
かつては門司港にも連絡船など多くの船が出入りしていました。
しかし、1942年関門鉄道トンネル、1958年関門国道トンネル、1973年に関門橋が開通してからは、その都度、門司港の役割は減少していったかもしれません。
関門海峡 和布刈(門司)側から
壇ノ浦古戦場の碑 下関側にあります
現在の碑は平成16年建立のもので、これとは全然変わっています。
今では義経の八艘飛びや、知盛の像までが設置されているようです。
壇ノ浦ですぐ思い浮かぶのは、やはり平知盛と源義経による源平合戦です。
祇園精舎の鐘の声……にはじまる平家物語に、いみじくも哀しい平家の末路は、
寿永4年春3月-1185年-闘争の局を、この地に結んだ。
彦島を根拠地とした知盛の軍は、九州、四国勢と合して田之浦に進めば、関東
武者を中心に、周防、長門の兵船を含めた源氏の軍は、満珠、干珠の島影より兵
を進めた。
紅白入り乱れての死闘数刻、ついに平家一門は急潮に敗走した。
おん歳8歳の幼帝を奉持した二位尼は、
今ぞしる みもすそ川の御ながれ
波の下にも みやこありとは
の辞世を残して入水され、怨みをのんだ一門は、この海峡の藻屑となった。
上の石碑にはこのように刻まれていました。
二位尼(にいのあま)とは平清盛の正室・時子のことです。安徳帝の母・建礼門院(徳子)は生き残り、後に京都大原に庵を結んで一門 の菩提を弔いました。
安徳帝入水の標柱
安徳帝は高倉天皇と清盛の次女徳子の御子で、二位尼とともに入水しました。
下関の火の山公園の上がり口にみもすそ川という小さな川がありますが、二位の尼の歌の「みもすそ川」にはいろいろな意味が掛けてあるようです。
「みもすそ」は「平家の世の終わり」という意味もあるでしょうし、「みもすそ川の御ながれ」は安徳天皇が「天照大御神の子孫である」という意味もあるかもしれません。みもすそ川は伊勢の五十鈴川の別名でもあるからです。伊勢は平家の出身地でもありました。
それで「波の下にも みやこありとは」につながります。
海峡に遊ぶ 水切りをしているのだろうか?
下関水族館 全国のイルカショーの草分けともいわれます
ペンギンの家
今は壇ノ浦の西の方に「海響館」といって、立派な水族館が完成しています。
それ以前はここがイルカの曲芸などもやっていました。
門司・下関間は、当時から歩道の海底トンネルがありました。1958年開通のトンネルで、上が関門国道トンネル、その下が人道でした。歩くと靴音が反響するんです。通行料は10円だったと思います。今は、たぶん無料。
下関から入ると、エレベーターがあって門司の和布刈(めかり)公園に出ます。
下関の火の山はとても見晴らしがいいところで、赤間宮(安徳帝を祀る)も近くにあり。赤間硯は有名です。
海峡内には武蔵と小次郎が決闘をしたという巌流島もあり、古代には神功皇后や遣唐使も通っていったと思います。平清盛の貿易船も秀吉の遠征軍も通っていき、たぶんイエズス会の宣教師ザビエルも、幕末には列強諸国の船も馬関を通過したことでしょう。今も多くの貨物船が行き交っています。関門海峡は狭いですが、日本の歴史の「るつぼ」のような海といえるかもしれません。