鄙乃里

地域から見た日本古代史

西条の柳原白蓮

 柳原白蓮の歌


いにしへの城の跡ぞと教へられあふぐふもとに

きりのただよふ


 もう数年前になるが、NHKの『花子とアン』に柳原白蓮女史(葉山蓮子=仲間由紀恵さん)が登場していた。それを見て思い出したのがこの歌だった。

 この短歌は『西条市誌』を編纂された久門範政氏の『西条市誌編纂餘録』に紹介されていたもので、昭和26年12月8日、歌人柳原白蓮が西条の武丈堤(ぶじょうづつみ)を訪れたときに詠まれたものという。

 白蓮女史が加茂川右岸から川越しに高峠山(たかとうげやま)を望み、市役所から派遣された久門氏ら数名の説明を受けて、その場で即吟された歌と『餘録』に書かれている。


 柳原白蓮の本名は柳原燁子(あきこ)といった。ドラマでも東洋英和女学校で、ヒロイン村岡花子の親友だった。歌人佐佐木信綱に師事して竹柏会(ちくはくかい)に入会し「心の花」で白蓮を名乗ったという。

  『餘録』の話にある昭和26年ごろは白蓮女史が「慈母の会」を創設し、平和運動のため全国行脚をしていた時期なので、その際に西条市に立ち寄ったのかもしれない。『餘録』には「(戦没者遺族援護運動のため)姪にあたる三笠宮殿下の母君・高木邦子女史とともに西條に来られた」と書かれていた。

 案内者一行が加茂川堤に出たときに、久門氏らが対岸の高峠山を指さして、中世以後に当地方の豪族の拠点(山城)であったことを説明すると、女史がその場で即吟されたそうである。


 久門範政氏は、かつて高峠城主だった石川備中守の旧居館・東の館に天正の陣後に居住した久門政武(中野村庄屋)の子孫にあたる人で、『西条市誌』を編纂されているが、その関係もあってか白蓮女史に詳しく説明されたのかもしれない。

 たしかに高峠の山麓は、曇の日などは霧がかかったように浮いて見えることがある。 歌自体は取り立てていうほどの秀作ではないが、即吟は、さすがに歌人だなと思わせる。状況をうまく説明していて覚えやすい歌でもある。

 


 石川氏の山城があった高峠(高外木城ともいう)

 

 武丈公園に白蓮女史の歌碑はいまだにないが、『餘録』には、ほかにも女史の歌が2,3併記されていた。

 武丈にて
  ここに植ゑし見ぬ世の人の心をば語るか花は春来ることに (白蓮)

 また、久門氏が女史からもらったという短冊にも、

  わすれむと君いいまさはつらからむわすれしといへはなほ悲しけん (白蓮)

 これらの和歌も『餘録』に掲載されている。

 女性差別意識の強い時代の中で抑圧を受け、その反動から自由奔放に波瀾万丈の生涯を送った恋多き女性、白蓮。

 
 その白蓮女史も後年になると裏腹に美智子妃の排斥騒動などを主導、あるいは加担したとして批判されているが、自分の気持ちを率直に包み隠さず表明しすぎて社会に波紋を広げてしまう…そんな果敢なタイプの女性はいつの時代にもいる。

 真相の詳しいあれこれは自分には分からないが、見かけは華奢でも、こうと思い込んだらたんなる歌人では収まりきらない、行動的で情熱的なスケールの人だったのかもしれない。