朝倉の神社と遺跡
今治市朝倉は古い神社や遺跡の多いところです。伊予国府に近い場所に集落があるからかもしれません。規模が小さくても何か由緒のありそうな神社や遺跡ばかりですが、細かい歴史まではよく分かっていないようで、いまだに謎が多いところです。
頓田川(とんだがわ)中流域の山際の小高い場所にあります。この一帯は野田という土地で、古くは朝倉天皇、野田の宮とも呼ばれていたとのことであり、斉明天皇行幸の時、創建されたとの伝承があります。
最初は低地の宮の窪というところに存在したらしく、頓田川が氾濫するので、高いところに移転したとかいう話です。神社まで車でも上がれますが、最後に短い急坂があるので注意が必要。対向車があったらぶつかるかも。
矢矧神社
朝倉は山間の土地なので、名神大社の多伎神社(たきじんじゃ)以外は小さな神社が多いですが、その中で矢矧神社(やはぎじんじゃ)はやや大きいほうです。
拝 殿
神額には八幡大神宮と矢畨大明神と記されています。
小千の天狭貫王の廟として祀られ、往古には朝倉宋廟本社と号していたが、斉明天皇御幸の時「朝倉宮」と改められ、弘仁11年(820)に八幡宮を勧請、清和天皇(56代天皇)の御代に朝倉宋廟八幡宮と改められたとの説明があります。
最初は八幡窪に祀られていたが、慶長18年(1613)現鎮座地に移され、延宝5年(1677)に矢矧神社と改めて今治城主松平公の祈願所になりました。
現在の社殿は弘化2年(1845)に再建されたもの。
相殿の矢畨大明神(やつがえだいみょうじん、と読むのでしょうか?)は慶長18年に合祀。上総国箕島(千葉県のどこだろうね?)より神霊を迎えたとのことです。
樹之本古墳
詳細は不明ですが、教育委員会の資料では5世紀ごろの円墳(碑石の説明にある前方後円墳ではなかったとのこと)。鏡だけでなく、玉類や蓋(きぬがさ)の埴輪も出土しています。
後方の大樹は県下でも有数のヒムロ(ネズミサシ)だそうです。
多伎神社
多伎神社の説明板
多伎神社は延喜式神名帳の名神大社。
手前に谷川が流れ、入り口に陰陽石がありました。
境内はうっそうとして、御神木だろうか、高い杉の古木もあったような。
この社叢の丘陵地には、落ち葉に埋もれた多数の古墳があり、その中には入り口が分かる横穴式石室墓もいくつか見られます。
神社の奥宮は上の山中にある石灰岩の巨石(磐座さん、ふすべ岩)で、そこから流れ出る水が神社前の谷川に続いているらしく、古来、雨乞いの聖地と信仰されているそうです。
この付近は田んぼが多いので、本来は祈雨のための磐座信仰だったものが、のちに有力者一族の古墳が集まる麓のほうに神社が造営されたのではないかと推測されます。
主祭神は
須佐之命(すさのをのみこと)
多伎都比売命(たきつひめのみこと)
多伎都比古命(たきつひこのみこと)
多伎神社の「たき」は実際は「嶽」の意味だともいわれますが、それでも「瀧の宮」とも呼ばれているので、やはり磐座の瀧との関係があるのではないでしょうか。そのため男女一対の瀧神が祀られているのかも。最初は素朴な地方の瀧神だったものが、のちは宗像神社中津宮の女神のようにも考えられたものか…。
須佐之命は午頭天王が合祀されたからでしょう。
問題は、あまり聞かない「多伎都比古命」ですが、それについては、この地方の豪族の首長を瀧宮の祭神として祀ったものではないかと推測。
その上で、この首長を『日本霊異記』や『今昔物語』に登場する「小千の直(あたい)」、つまり、小市国造の小千守興のことではないかと…想像を広げています。「小千の直」とは天智天皇の命で百済救援に向かい、唐軍の捕虜になった武将の話です。
つまり、この一帯は小市国造家が本拠としていた集落ではないでしょうか。小さな古墳群もまたその一族の墓ではないのだろうかと考えていますが、その辺は今後の研究に期待したいものです。
この朝倉は今は内陸の土地ですが、往古は海も近かったようで、朝倉港があったそうです。その後、北側に頓田川や蒼社川による沖積平野が出来て、朝倉の小千氏らが次第に平野部に進出し、そこに国府も置かれた。それが桜井から今治市街の沿岸部で、その転機となった大事件が684年の白鳳地震だった。以来、昔の朝倉の地は荒廃し置き忘れられた――『朝倉町誌』には、こんな内容の話も書かれていました。
朝倉には小千御子の次の天狭貫王の宗廟本社(現・矢矧神社)もありますから、朝倉は代々の小千氏並びに小市国造の本拠地だったのではないかと思います。小千氏は伝承で孝霊天皇の第三皇子の子孫、また応神天皇御代の小市国造は邇芸速日命の子孫(『国造本紀』)なので、系譜のどこかで小千氏の養子になったのかもしれません。
野々瀬古墳群
七間塚古墳
野々瀬古墳群は笠松山の南麓にある古墳群で、昔は100基に及ぶ群墓があったという話ですが、戦後、畑地に開墾されて、20基ほどが現存しているとのこと。どうりで、あたりには広い畑が....。とくに大きな古墳は五間塚古墳と、この七間塚古墳。五間塚からは鉄剣、須恵器、耳飾り、首飾り等の出土物があったが、七間塚の出土物は現存していないそうです。
石室内部
石室の全長10m、幅1.5~2m、高さ2m。
天井石
少し濡れている。
七間塚古墳開口部
現在の墳丘は直径18m、高さ約6mになっていますが、原型は、もっと大きかったそう。
伏原八幡宮
才明(さいみょう)という土地の近くにあって、社地が斉明天皇の木の丸殿(朝倉橘広庭宮)跡地だとも伝えられます。橘天皇とは斉明天皇のこと。
今は八幡宮になっています。
朝倉橘広庭宮の記事中でも書きましたが…、
供養塔はこの地域の皆さんが管理されていると、近所の店の方から聞きました。
「誰の供養塔か聞いていますか?」と訊ねたら、「知らない。昔から大切な場所といわれているので、掃除している」とのこと。
奈良県の斉明天皇陵は車木陵か牽牛子古墳かは知りませんが、『日本書紀』の記述では「小市崗上陵(おちのおかのへのみささぎ)」。車木陵は越智の岡、牽牛子古墳も越(小市)塚。なので、もしかしたら、ここは仮もがりの場所だったのかな? と。
この岡からは笠松山も丸見え。
笠をかぶった鬼がなんとかかんとか・・・。
斉明天皇は熟田津石湯行宮(西条)→磐瀬行宮(四国中央市土居町の村山神社)→朝倉橘広庭宮(今治市朝倉)へ。そこで亡くなった? 朝倉に滞在したとき、中大兄皇子と大三島へ渡って遣唐使が持ち帰った「禽獣葡萄鏡(きんじゅうぶどうきょう)」を横殿(大山祇神社の旧地)へ奉納した。今、大山祇神社の国宝?
朝倉は謎があり、面白いところです。
※インフレでネタが切れ気味になりましたので次回からしばらく過去の随想で代用させていただきます。そのうちネタが入ればテイクアウトで出したいと思いますので、よろしくお願いします。