鄙乃里

地域から見た日本古代史

一柳直照の母に関する二つの疑問

 一柳直照(半弥)の母は『寛政重脩諸家譜』には直重正室で直興と同母の「菊亭大納言公矩の女」とある。が『一柳家史紀要』には直重側室の「長養院殿菊源景廣大姉」と記されている。

 しかし、この点に関していえば、自分は、後説のほうに疑問を感じる。古くから一柳家に伝わる史料だとしたら…その点からは信憑性がありそうに思えるのだが、根拠の詳細は説明されていない。

 それに対して「菊亭大納言の女」説は『寛政譜』だけでなく、一柳西條藩の家老だった門川氏の家記にも『寛政譜』と同様のことが記されている。

 西條藩の家老のひとり門川八左衛門は直重・直興・直照の3代に仕えているが、実をいえば「菊亭大納言の女」つまり法名が「栄法院殿妙昌日繁大姉」の実弟なのである。

 換言すれば、門川八左衛門のが大納言菊亭殿の養女になって直重に嫁いだのであるから、姉の子供を間違うはずはなく、記事の内容から総合的に判断しても、門川氏の家記に誤りがあるとは考えにくいようである。

  「長養院殿菊源景廣大姉」が直重の側室というのはそうなのだろうが、正室没後に後室に準じられたのなら江戸に滞在していても不思議はないし、墓所も藩主の近辺にあってもよさそうなものだが、藩主の墓は西条には一つもない(位牌はある)のに「長養院殿菊源景廣大姉」の墓は西条市福武の常福寺墓地にあって、彼女の母親の墓もある。



 西条市常福寺

 東京文京区の龍光寺にも景廣大姉の招魂碑があるそうだが、龍光寺は会津藩士・一柳直信(なおのぶ)家の菩提寺で、直信は景廣大姉の弟(もしくは兄)なのだから、そこに景廣大姉の招魂碑があるのは不思議ではない。

 もし景廣大姉が直照の実母であるなら、直重か直照の墓所あたりに、墓とか供養塔があってもいいのではないだろうか。

 因みに、西条市の一柳家菩提寺常福寺に景廣大姉の墓があるのは、調べた人がいるので間違いないのである。藩士の墓、市民の墓もあり、なにぶん墓の数が多過ぎて詳しい人でないと見つけられないが、景廣大姉の母親の墓はすぐ分かる(直重の正室と間違えられているようだが)。

 もう一つの疑問は、直重の正室「栄法院殿妙昌日繁大姉」を「菊亭大納言公矩の女」と伝えられていることについて、誰も疑念を抱かないことである。

 「菊亭公矩」という公家は一柳氏関連以外のところでいくら検索しても出てこない。今出川(菊亭)公規(きんのり)が同名で、もしかしたらそれに当たるのかもしれないが、時代がずれていて、むしろ、その養父の菊亭経季のほうが時代的には菊亭殿に相応しい感じがする。

  「菊亭大納言公矩の女」というのは『寛政譜』の記述(あるいは誤認?)が後世に拡散したのではあるまいか?  門川氏の家記には「大納言菊亭殿」とは書かれていても「公矩」の名はどこにも書かれておらず、一人歩きした名前ではないかと思っている。


 直照(半弥)の実母は、別の家老・一柳源左衛門盛晴の女で直重の側室とされる法名「長養院殿菊源景廣大姉」ではなく、やはり、大納言菊亭殿の養女で、直興と同母の「栄法院殿妙昌日繁大姉」ではないか。また「菊亭公矩の女」とするのは誤りで「菊亭経季の女」のほうがまだ可能性が高いのではあるまいか――というのが直照の母堂に対する
自分の感想であり、ここで疑問を提起しておきたい。

 もちろん、これらの疑問を否定する有力な史料が見つかれば当然改めてもいいと思うが、たぶん、なさそうである。

 なぜ『一柳家史紀要』が直照を側室の子とし、誰も彼もが正室「公矩の女」とするのかが分からない(公矩とは誰ぞや?)ので、疑問を呈してみたまでである。

 関心のない人にとっては、どうでもいい話だろうが、何かご存じの方はご教示頂けるとありがたい



(一柳氏はこれで終わり)