鄙乃里

地域から見た日本古代史

その他の一柳氏(直家、直頼、直照)

 一柳直盛の子は6人いたことになっているが、跡を継いで大名になったのは嫡男直重、二男直家、三男直頼の三名である。嫡男の直重は先述の通り3万石で伊豫西條藩主になっている。


 一柳直家
(ひとつやなぎなおいえ)

 次の二男・一柳直家は、自らの知行分である播州5千石に加えて、宇摩郡・周敷郡に1万8千6百石と播州加東郡に5千石が分封される。それにより合計2万8千6百石の大名になったので、川之江(かわのえ)に陣屋を置いて川之江藩主となった。

 しかし、わずか6年後の寛永19年(1642)に、参勤交代の途中で病気に罹り、5月29日江戸で逝去したという。参勤交代は藩の財政はもとより、藩主家臣の身体にとっても大きな負担だったのだろう。

 それに直家には継子がいなかったので、小出吉親(こいでよしちか)の次男・直次なおつぐ)を婿養子として相続を届け出ていたが、承認される前に直家が亡くなったため、末期養子と見なされて川之江藩は没収天領となった。西條藩改易よりも20年余り前のことである。

 それでも祖先(直盛)の功績により播州加東郡の1万石だけは認められ、直次が藩主になって代々が継承。小野藩として明治まで存続している。

 一柳直家、小野藩初代藩主。幼名は禅門。美作守。一柳善作。享年44歳。

 

 

 一柳直頼(ひとつやなぎなおより)

 一柳直頼は直盛の三男で、直重・直家の弟である。直家とは3歳違い。

 父の遺領のうち周敷郡11か村と新居郡4か村を分知される。自領の周敷郡塚村小松原の地に陣屋を築き、松が多かったその地を小松と改めて、伊豫小松藩一万石の祖となった。正室青龍院は小野藩主直次の姉である。

 領内の三嶋神社を再建し、高鴨神社とともに祈願所とする。また菩提寺として仏心寺(ぶっしんじ)を開基。

 正保2年(1645)4月28日に江戸で逝去。44歳。従五位下因幡。通称は蔵人西条市小松町の遠見山に墓所がある。


 二代直治(なおはるは延宝4年(1676)に静岡県長泉町にある大伯父・直末首塚を改修しており、そこに石碑がある。駿府加番も2度務めている。


 三代頼徳(直卿)は当時の大名諸侯中随一の能書家として知られ、周辺諸寺の扁額なども数多くしたためている。また『小松藩会所日記』は頼徳の時代に始まったものである。藩主になって
直卿(なおあきら)と称したが、後年になって頼徳(なおのり)に改めている。

長福寺の扁額

 以後の代々の藩主も宝永の大地震享保の飢饉を乗り越え、伊豫聖人と称された朱子学者の近藤篤山(こんどうとくざん)を招請して養正館で藩内の教育に力を入れたり、小藩にとっては経済的負担である参勤交代も借金でやりくりしながら、徳川親藩に挟まれた1万石の小松藩を無事存続させてきた。

近藤篤山邸

 伊豫小松藩は直頼を初代として、明治4年までに9代続いて藩政を終えている。



 一柳直照(ひとつやなぎなおてる)

 一柳直照は西條三代藩主直興の弟。寛永3年(1626)伊勢神戸で生まれる。幼名は藤宮。熊之助、半左衛門。半弥の通称で呼ばれることが多い。西條へ来たときは、11歳か12歳ぐらいだった。大町に住んでいたという。

 父の直重が逝去したあと嫡男直興が藩主になったが、半弥にも5千石が分与され、宇摩郡津根に八日市陣屋を構えて移った。ただ『西條誌』を読むと分知の当初は西條の大町を領分としていたようで、寛文元年(1661)に宇摩郡津根に移ったように考えられる。少なくとも、寛文元年から没年までの間は宇摩郡にいたようである。

 寛文5年(1665)に兄直興が改易されたため、一柳氏宗廟の祭祀を受け継いだとされ、722石を加増される。一柳直照、寛文7年4月5日没。42歳。正室は水谷勝隆(みずのやかつたか)の女である。

 直照の家督は子の直増(なおます)が継いだが、元禄16年(1703)に播州三木(兵庫県三木市)に転封。高木陣屋(5千250石の旗本)として明治まで続いた。宇摩郡津根は天領になったのちに松平西條藩の領地になったが、直増の転封は別子銅山の採掘が関連していると言われる。



 さて、一柳西條藩が改易になったあとは、どこが宗家になったのだろうか? 直家の小野藩か、直頼の小松藩か、直照の高木陣屋なのか…。よく分からないが、門外漢から見ると、解釈によってどこが宗家か変わるようである。



(次回は 一柳直照の母について