鄙乃里

地域から見た日本古代史

伊豫西條藩の一柳氏 ⑥ 直興

 一柳直興(ひとつやなぎなおおき) 伊豫西條藩三代藩主

  
 一柳直興二代藩主・直重の嫡男で、從五位下監物、通称は左近。 寛永元年(1624年)伊勢神戸に生まれる。12、3歳のころ父とともに西條に移動。父直重の藩政時代には弟の直照とともに大町あたりに居所があったようだ。


 正保2年(1645)6月に
父直重が没したあと遺封を継いで、西條藩三代藩主になった。その際、自らは2万5000石を相続し、5000石を弟の直照(一柳半弥)に分与している。

 
 直興は加茂川の釜ノ口付け替え工事や新田の干拓をさせるなどの事業を行い、20年ほど西條藩主を務めたが、
寛文5年(1665年)7月、お役目不行届き等の通達を受けて、幕府により改易を命じられている。

 その理由は以下のようである。

1.幕府から女院御所造営助役に任じられた際、入洛が竣工後になり、その後も病と称して参内しなかった。

2.参勤交代遅参の届が遅れた上、参府後も老中へ病状を報告しなかった。

3.平生から忠臣の諫死事件・銀納事件など、家臣・領民を苦しめ、藩内部に失政が多かった。

4.内寵多く、女色に耽る

 幕府の説明はだいたい以上のようで、改易を言い渡されて、加賀藩前田綱紀(まえだつなのり)に身柄を預けられた。


 たしかに当時は「藩内の一木一草なりとも藩主のものであらざるはなし」とされた時代なので、解釈を誤り、横暴な振る舞いをした藩主もいただろう。単なる逆上により家臣を手打ちにした程度では責任を問われない事例は他にもあるが、伝えられる忠臣が四人も諫死した事件や、銀納事件のような領民へのひどい仕置きは責任を問われても仕方がないとは思う。



 常福寺にある四忠士の墓 同時に諫死したように記されている

 しかし、1や2の件については幕府側の一方的な判断であるから、病気だったらしい直興のほうにも何か事情や言い分があったかもしれないし、4に関しては付け足しのような理由でしかない。

 

  嘘か真か『一柳家史紀要』には、ある人から聞いた話として次のような伝聞も紹介されていた。

自分先年御大典にて京都へ出張の節、修学院離宮を拝観したる時、案内し呉れたる宮内官の話によると、一柳直興が幕譴(けん)を蒙りて金沢へ謫(たく)せられたるは、此離宮造営に関してのことであるが、當時其奉行職たる京都所司代及其の助役たる直興は、皇室の式微甚だしきを歎き、其の造営を幕府の設計よりも以上に立派に仕上げ、且つ離宮域内にある寺迄も、此亦立派に修造せしかば、頗る幕府の忌憚に蠋れ所司代切腹してしまった、於此幕府の老中共は、残る一柳が勤王の志あるを推察し、之を滅さんと思へども・・・中略・・・それで諸種の軽微なる失行を集め、之を以て除封の罪科に處するに至ったもので、普通ならば罰するに足らぬものである。故に皇室から云へば直興は勤王家であって、毫も罰すべき人でない」と云ふて居られた。

 

 「これはあるいは同君が自分が同族であるのに対して同情を寄せられ、後裔者を慰める好意かとも思った」と編者は控えめに引き算をして、付記のほうに載せている。

 
 そうかもしれないし、そうでないかもしれない。調べた限りでは、この時代に自決をした京都所司代はいないようだし、昭和初期の宮内官からの伝聞だから鵜呑みには出来ないが、幕府との間で何かの軋轢があったことは考えられる。それで直興は怒って、竣工式に遅れたり、病気だと云って領地へ帰ってしまったのかもしれない。

 
 要するに法度をたてに外様大名つぶしや親藩などの再配置が行われていた時代なので、不手際が続くと、改易もやむを得ないのだろう。それでも家光の時代なら面識があったので、まだ少しは猶予してもらえた可能性がなきにしもあらずだが、時はすでに四代将軍家綱の時代に移っていたのである。老中が実権を握っていた。

 藩主たるもの、長たるもの、常に自重しておごるべからず。時に41歳。以後、西條藩陣屋は5年近く空き屋敷になった。


 それでも加賀藩に預けられた一柳直興については、加賀前田松雲
前田綱紀伝に次のように書かれているそうだ。

藩臣評定所に至り之を預かりて第に入るるに少しも悪びれたる色なく,風采優美にして原語尤も明晰日頃の噂に似ぬ体なり。かかる人を草履取り一人もなくてつれ行くことと。見聞くものそぞろにあはれを催しぬ。・・・・・中略・・・・・つらつら監物(直興)を見るに二三の過はありしなるべけれ共さして重讉を被るべき人柄とも覚えず。一国の主と傲りても一旦幕府の忌憚に遇へは境遇の轉すること車輪の如し・・・下略・・・

 (『東予史談』第24号「西條の起源及変遷」西 原生記より抜粋引用)

 

 直興は四代家綱の時に罪を許されることはなかったが、五代将軍綱吉の時代になって松雲公が尽力し、20年後の貞享3年(1686年)に許されて金沢で暮らし、元禄15年(1702年)8月3日に亡くなったとされる。行年79歳。金沢では厚遇されている。

 墓所は前田家墓地のある金沢市野田山。酉覃粋院。高厳寺に遺髪塔と遺愛の紅梅がある。



(次回は その他の一柳氏)