鄙乃里

地域から見た日本古代史

西条の高浜虚子

 高浜虚子の句碑


惟(おもんみ)る   御生涯や   萩の露


 西条市飯岡(いいおか)半田山の麓にある室山義通寺(むろざんぎつうじ)は王至森寺(おしもりじ)の末寺で、一般に秋都庵(しゅうとあん)の名で知られている小さな寺である。


 室山義通寺

   境内の南西端に寺院に相応しい菩提樹が植えられ、菩提樹の傍の石組みの周りに平戸つつじの植え込みがあって、そこに大きな石の句碑が建てられている。それは俳誌『ホトトギス』で活躍した大正・昭和の俳人高浜虚子の句碑である。花の時季には少し早かったが、萩も一株ほど混じっていた。

 表面が平たく削られた碑石には細い字で、こんな句が刻まれている。

  惟(おもんみ)る   御生涯や   萩の露

 高浜虚子昭和13年(1938)末に門人や家族とともにこの寺を訪れたそうである。
 彼の母方の祖父母の墓がこの寺にあるのを、知人を通じて知ったからだという。同年10月には幼少期を過ごした風早郡(かざはやぐん)にも帰省しているので、あるいは同じ旅の続きだろうか。

 
 高浜虚子温泉郡松山市)の生まれだが、幼少期を風早郡(現松山市)で過ごしている。正岡子規の文芸誌ホトトギスを継承し、当時は鎌倉市に住んでいたが、その虚子の外祖父(母方の祖父)真野幸右衛門(旧名:山川市蔵)が維新前後に、ここ西条で寺小屋を開いていたということである。

 
 外祖父の山川市蔵は、虚子の祖父・池内政明の兄弟で松山藩だったが、どんな理由からか鳥羽伏見の戦いの出陣に間に合わなかったという罪状により
処罰を受けて松山藩から仕官を解かれたという。

 そのため禄(ろく)を失って浪人になった市蔵は、子らを松山の知り合いに預け、夫婦で宇摩郡の土居(四国中央市土居町)へ行って、手に職もなく生活のために寺小屋を始めたのだが、土居では寺子が思うように集まらなかった。そこで今度は西条へ移転してきたらしく、西条では幸い寺子も集まり地元民にも受け入れられたことから、当地に落ち着くことになったものらしい。

 その逐電()の際に松山の知り合いに預けられた長女の「(りゅう)」が高浜虚子の母で、虚子の父・池内政忠(信夫)と柳はいとこ同士だった。

 後年になって、この外祖父母が西条で亡くなると里人の手で手厚く葬られたそうで、二人の墓のある場所が、ほかならぬこの室山義通寺だったのである。


 上記の経緯から推察すると、外祖父母が西条の田舎に寺子屋を開いた時期は明治の初めごろと考えられ、その場所は、この秋都庵の存する飯岡村(江戸時代の上島山村、半田村)のことであるようだ。

 たぶん市蔵は浪人になったころか、もしくは、明治の戸籍登録のときにでも「真野幸右衛門」と改名したのではないだろうか。その地の里人に親しまれたのなら、後半生はそれなりに幸せであったのかもしれないが、流浪の身となった当初は、覚悟の上とはいえ、夫婦ともども、ずいぶんご苦労をされたことであろう。

 
 虚子自身は外祖父母の墓が西条の義通寺にあることは、長い間知らなかったようである。そのため、昭和13年(1938)末になって、初めて西条の飯岡を訪れたのだった

 石碑に刻まれた句は、虚子がそのとき初めて墓前に香華を捧げ合掌をした時の感慨を萩の露に託して詠んだ句だろう。

 ただ、実際の成句はその時点ではなさそうで、昭和28年頃に西条在住の俳人・山岡醉花(やまおかすいか)の要請に応えて書き送ったもののようである。したがって、この句碑の完成も昭和29年9月で、除幕式が明くる30年4月と境内の説明板にも書かれている。

 

 
 この句碑は、当時クラレ西条の社員で俳誌『燧』に所属した桐野花戎(きりのかじゅう)らが、病に倒れた山岡醉花の志を受け継いで完工させたものである。

 そのころ虚子はすでに80歳を越えていたので除幕式には出られず、子息の年尾氏が来席されたようだ。石碑の文字は虚子自身の筆跡という。

 萩の里
 室山の秋の紅葉を愛でて義通寺を「秋都庵」と名付けたのは、伊豫小松藩3代藩主一柳直卿(ひとつやなぎなおあきら)公である。藩政時代に秋都庵のある半田山の一部と上島山村は新居郡(にいぐん)ではあるが、実際は小松藩の飛び地だった。義通寺の庫裡(くり)には直卿公の筆になる「秋都庵」の扁額も掲げられているようだ。

小松三代藩主 一柳直卿 その人と書 小松町教育委員会発行より引用

 この一帯は「萩の里」とも呼ばれ、秋都庵の前には「萩の里」の作業所や西条地域交流センターがあって訪れる市民もけっこう多い。やや高台になっていて町並みが望めるが、墓山のほうに上がるともっと見晴らしがよさそうだ。「萩の里」というので秋の風情を期待して行ったが、見たところ寺域にはたった一株しか見あたらなかった。

 不思議に思って後日、知人に聞いてみると、以前は寺のあたりに広い池があって、その周囲の土手に紅白の萩が咲き乱れていたそうである。

  惟(おもんみ)る   御生涯や   萩の露

 虚子らが墓参に訪れた頃には、きっと萩ももっとたくさん繁茂していたのだろう。