鄙乃里

地域から見た日本古代史

寄らば大樹の陰

気まぐれ随想録『赤とんぼ』


  寄らば大樹の陰 

 

 「寄らば大樹の陰」よく使われる「ことわざ」だと思うが、肯定的な意味で使っているのか、否定的な意味で使っているのか、受け止め方も様々である。

 それは、このことわざ自体に対する賛否ではなく、この場合の大樹がどういう存在であるかが問題視されるからだろう。


 たとえば、大樹を観光船の船長としてみよう。その船長が
日頃から向上心をもって精進し、操船に関する優れた知識・技能・経験等を保有し、予期しない事態に直面しても沈着・果断に障害を克服して、正しい進路に船を導いていけるような人、人間的にも信頼の厚い船長なら、船客のほうでも安心して頼ることができるだろう。しかし、その逆であれば、そんな船に生命をゆだねるのはまったく無謀で軽率な行為であり、そのような愚行を自ら行う船客は誰もいないはずである。

 このように、何かに自分をゆだねるという選択は、相手次第で自分の運命が大きく左右されることに直結するので、その相手に対してよほどの信頼感がないかぎり自分を任せたりできるものではない。


 しかしながら、
誘惑に弱いわれわれ人間の常として、華やかそうで興味を感じる世界やうまい儲け話にはつい負けて、結果として正体不明な何かに身をゆだねてしまうような失敗はしばしば起こりうる。それは人が万事において依頼心の塊だからで、躓いてからでは、いくら嘆いても遅いのである。

 自分で考えることを放棄して勧められるままに安易な道を選んでおきながら、期待が外れるとクレームや訴訟ばかりというのでは、やむを得ない場合があるにしても、たしかに筋違いかもしれない。「こんな結果になるとは思っていなかった。安心していた」は決まり文句だが、たとえ相手に騙されていたとしても、自分がこうむるリスクとはそんなに甘いものだろうか。結果として捨て駒にされるか、共倒れになって終わるのがおちである。


 というわけで…。人はどんな人でも、人以上のものではありえない。

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり

 社会人としての協調や相互扶助の精神はもちろん大切である。しかし『走れメロス』ではないけれど、互いがよほど強い信頼感で結ばれていないかぎり、たとえ友であってもすべてを簡単に委ねるなど恐ろしくてできるものではないだろう。


  「寄らば大樹の陰」は本来は肯定的な意味で使用されるべき言葉だと思う。しかし、その「大樹」はいったいどこにあるのか。

 それが何であろうと、少なくとも金や物や個人や組織やイデオロギーといった類いのものを、あたかも大樹のように絶対視し、安易に依存し、帰依し、忠誠心まで誓うかのような…人として自立心を失った恥ずべき勘違いだけは、もういい加減に卒業したいものだと思うのである。



 

 

                   


(以前の記事に補筆しました)