鄙乃里

地域から見た日本古代史

シンプルライフ

 気まぐれ随想録『赤とんぼ』


  シンプルライフ


  最近はなるべく簡単な生活が好ましく感じられるようになってきた。歳のせいかもしれない。

 平成の初め頃だったか、中野孝次の『清貧の思想』という本がベストセラーになったことがある。昭和の初めにも林芙美子の『清貧の書』という短編小説があり、その頃はまだ「清貧」という用語自体が聞き慣れない言葉で、何か新鮮に感じられたものだった。

 しかし「清貧」という言葉自体は、ずっと昔からあったようである。辞書を引くと「貧乏だが、心が清らかで行ないが潔白であること。余分を求めず、貧乏に安んじていること」とある。

 ただし、同じ「清貧」でも、強いられたものと、自ら求めるものとでは、その内容が大きく異なってくる。「武士は食わねど高楊枝」という諺もある一方で、「恒産なければ恒心なし」という古典の言葉もある。

  「清貧」は潔い生き方ではあるが、「欲しがりません、勝つまでは」に象徴されるように、権力者・為政者にとって便利な言葉として使用された時代もあった。


 それでは、現代でいう「清貧」の意味とは何だろうか。
 それは「自らがそれを求めたもの」であり、あるいは「自らそこに安んじている」ということではあるが、ただ、多くの人の場合、もともとが「清貧」だったというわけではなく、「清貧」生活に回帰することで、自らのアイデンティティを回復させようとの願望が込められているようだ。

 溢れたモノと飽食と利便性の豊かさに馴れきった現代の生活習慣に決別し、今後の生活を単純明快で自然な方向に変革していこうとする、実践的な試みということになるだろうか。

 そこに人間本来の生き方や喜びを見出すこと。それは過去の「清貧」の意味から考えると、ある意味、贅沢な選択ともいえるが、それが、現在いわれているところのシンプルライフの意味になると思うのである。




 

                    

平成31年3月8日の記事です)