鄙乃里

地域から見た日本古代史

ローラ・インガルス・ワイルダー賞について

 気まぐれ随想録『赤とんぼ』


  ローラ・インガルス・ワイルダー賞について

 

 アメリカ図書館協会が1954年に創設した「ローラ・インガルス・ワイルダー賞」が、2018年6月25日に「児童文学遺産賞」と改称されることに決定したとの報道を読んで、いささか驚いた。
 改称の理由は、アメリカ中・西部開拓時代の体験をもとに創作されたワイルダーの作品“小さな家”シリーズには人種差別的とも受け取れる表現がいくつかあり、現代の児童文学賞の賞名としては相応しくないとの判断があったらしい。 
 
 原作者のワイルダー自身が、創作上の修正をほどこした部分を除いて、作品中でとくにそうした発言をしているとは思わないが、当時の開拓者である白人の中にはそういう通念があり、露骨に差別的発言をする人も多かったことについて、ありのままに書かれていることはたしかだ。その相手が黒人のこともあるが、そのほとんどはアメリカ先住民に対してであり、悪口雑言があからさまに書かれている個所もある。 

 しかしながら、それは作者が差別を肯定するために意図的に挿入したものでないことは明らかであり、物語を展開する中で、当時の身近な開拓者の発言をありのままに取り入れているだけで、作品全体の量からしても僅かな個所にすぎない。むしろ作者は小さな主人公を通してそのような大人の考えに疑問を感じていると受け取れるところもある。 

 要は、作者がそんなことを言おうとして“小さな家”シリーズを書いたのかということである。ワイルダーはPG(パイオニア・ガール)を書くにあたって、「自分の生きた少女時代がそのままアメリカ合衆国の歴史と重なっているのを知ったこと、このまま消えていくにはあまりにももったいない物語であり、とくに父さんのことを書きたかったからです」という趣旨のことを語っている。だから、その言葉をそのままに受け取ればいいだけのことではないだろうか。 

 それとも当時の開拓者の中に存在した差別意識を原作者がスルーして書かなければ…改称の必要はなかったと協会は考えているのだろうか。もし1800年代の開拓時代の歴史を先住民に対する差別と侵略の歴史としてのみ捉えるのであれば、アメリカ合衆国の歴史もまた、すべて侵略者の歴史と考えなければならなくなるが、その点はどのように認識しているのだろうか。 


 もちろん現行の児童文学賞自体のあり方を変更することには反対ではない。人権尊重の趣旨から
考えても、教育的見地から見ても、現在の社会倫理に照らして、それが適正だと考えたからそうしたのだろう。それは、パワハラ的指導が容認されず、男女共同参画社会が提唱されている現今の思潮とも方向性が共通するものだ。

 それは当然のことであり、被差別者の立場からすると、自分たちの読む本にそんな発言が載っていたら、児童ならずともカルチャーショックを受けるだろうし、屈辱的で腹立たしく、やりきれない思いにとらわれるに違いない。 

 しかし、そうした事実は若干見られても、作品がそのような意図で書かれていなければ、児童文学の中心的な読者である児童は、人権教育によってそのありのままの物語の中から物事の是非を自分で正しく判断できるはずである。それができないような大人の読者は、本を読む前から、もともとそんな偏見に染っているのであるから、どんな本を読んでも、読まなくても、どんな話を聞いても同じことである。自分の人生に深く関わる別の何かをきっかけに偏見を改めるしかない。 


 ただ、こうした場合にいつも疑問に思われることは、全体から見れば細かい発言や描写を、それが本題ででもあるかのように敢えてほじくり出す現代の風潮である。そこには歴史や過程を全く無視して、ただ現在の価値観から外れるものすべてを排斥しようとする、無神経ともいえる不寛容さがある。内心が偏見の塊でも、建前が公正・平等でさえあればそれでいいのか?  自身を反省もしないで、他者だけを批判する権利が人にあるのか? それが教養のある文明人なのか?

 過去の歴史や過程のすべてを自分の中で受容した上で、新しい理想を掲げているのであればそれはいいが、ただ一部の事柄を表面的に取り上げて他者の過誤を批判し断罪するだけであれば、それは正義の名を借りた差別・偏見と何も変わらない。愉快犯であり、つまらないバッシングである。

 比較的歴史の古い日本と歴史の新しい多民族国家アメリカ合衆国とでは事情が多少異なるかもしれないが、日本でも公家社会や武家社会は同じである。差別構造に満ちている。自分は歴史には関心があるが、公家や武士は好きでない。ただ、そのしがらみの中で良心的に生きようとした人もおり、彼らも苦しんだであろうことは想像できる。人間は歴史の中では愚かで弱いものだ。自分で生きているつもりでも、自由にならない運命の中で、流れのままに翻弄されている存在にすぎないのかもしれない。
 
 今回のアメリカ図書館協会の賞名変更は良心的でやむを得ない面もあるが、一方で、第1回受賞者の名をこれまで尊重しておきながら、手のひらを返したように変更するのでは、いくら弁明しても、それまでの受賞者全員を否定するのに変わりがなく、読者の心を裏切る行為として、内心の失望と怒りを買うのも当然である。つまり、ワイルダーの作品をそのようなものとしてしか認識していなかったという事実を、自ら露呈した結果でもあろう。


 児童文学賞には、もとより個人名など付けないほうがいいに決まっている。後に必ず今回のような問題が発生するからである。時代に合わせて賞の理念まで変更する必要があるのなら、弁明などはいらないし、教育上不都合があるのなら、最初から学校なんかで教えなくてもいい。児童が自分で読むのをじゃましなければそれでいいはずだ。

 改称などをするからおかしくなる。ワイルダー賞はそのままにして、今後は「児童文学遺産賞」なるものを協会の正規な文学賞として新たに設ければ、それでよかったのだと思う。

 



 

                   

(2018年12月30日の記事です)