鄙乃里

地域から見た日本古代史

秋の訪れ

 気まぐれ随想録『赤とんぼ』


  秋の訪れ

 
 先日まで暑い暑いと騒いでいたのに、10月に入るともう秋の冷たい風が吹き始めた。日毎に朝夕も冷え込んできた。いつまでも夏服のままでは風邪を引いてしまう。

 近所の田んぼではコンバインのエンジン音が響いて、すでに稲刈りも始まっている。しばらく雨がなかったので稲は乾いているだろう。天候を見ながらの勝負が始まる。

 このところは午後から毎日2時間ぐらいずつコンバインが動き出す。広い田んぼを一区画ずつ刈り取っていく。稲の熟れ具合を見ながら、明日も次の作業を続ける予定だろう。それにしても、かなりの範囲の稲刈りが、たったの2時間ほどで終了だ。


 稲刈りといえば
一昔前は田植えと同様に大変な重労働だった。刈り入れの時期になると小学校も休みになった。子供も何もない、家族総出で稲刈りを手伝うのである。もちろん、近所の農家の手も借りる。その代わりに相手の田んぼも手伝うのだ。

 
 稲刈りだけでも楽ではない。広い田んぼの中を腰をかがめて移動しながら一株一株、鋸鎌(のこがま)で切り取っていく。それを藁で束ねて稲木にかける。昼になると畦に坐ってみんなで弁当を開き、午後からまた同じ作業を薄暗くなるまで続ける。腰が痛いどころではない。終わる頃には完全に伸びなくなる。


 稲刈りのあとは、稲木にかけたまま稲束を乾かす。天日干しの
光景が田んぼ一面に広がっていた。

 稲束が乾くと今度は脱穀だ。櫛形の歯が着いた農具で穂をそぎ落としたり、足踏み式の脱穀機で稲束を返しながら根気よく脱穀していく。それから唐箕(とうみ)といって、籾を上から落とし、手回しで風を起こして、藁屑やゴミを吹き飛ばして除去する木製の農具があった。

 発動機付きの自動脱穀機は数も少ない上に高価なものなので、機械を所有する専門の業者がいて、依頼された農家を順番に廻っていた。大きな農家では予約していたのだろう。田んぼの真ん中で秋空のもと、発動機音が一日中うなり声を上げていた

 うちは農家ではなかったので籾すりの作業はあまり目にしなかったが、全自動ではなくても、それなりの機械があったのだろう。稲が玄米になるまでには毎日毎日、何週間もかかって収穫したものである。

 刈り取った藁束も田んぼに積んで藁グロにしておき、いろいろな用途に使っていた。田植えでもそうだが、農家のお年寄りは、そうした作業のせいで腰が曲がっている人が多かったと思う。

 そんな苦労をして収穫した米なので、みんな一粒でも大切にし、御飯を残したりこぼしたりすると、ひどく叱られたものだ。

 終戦後しばらくの間は、地方でも普段の食事はだいたいさつまいもばかりで、米が主食だということは何年も知らなかった。その後も麦飯や外米だった。当時の外米はパサパサして匂いが嫌で食べられるものではなかった。黒いくず米や砂が混じっていることも多かった。噛んだときに「ガジッ」という、あの嫌な感じ。普段の食事が日本の白米になったのは十年ぐらい経ってからだ。今のように旨いコメではないが、ありがたく、無駄には出来ないのである。それからは白米ばかり食べていたので「少しは麦を食べないと脚気になるぞ」と逆にいわれたぐらいである。

 ところが今は稲刈りも、大型のコンバインなら、1町でも2時間ほどで終わってしまう感じだ。稲藁は短く切って田んぼに撒き、収穫した籾米だけをコンバインの排出装置から軽トラに積み込む。人が乗れる大型のコンバインなので、気は遣うだろうが、そんなに重労働のようにも見えない。その代わり何百万円もするだろうから、専業農家でないと簡単には買えないだろう。収穫期以外には使わないからリースなのかもしれない。

 収穫した籾米はその日のうちに乾燥機にかけないといけないから、いくら大型コンバインといっても一度に稲刈りだけは出来ないようだ。それで、稲が乾いた午後から、毎日2時間ぐらい少しずつやっているのだと思う。

 農機具の進歩は凄いもので、昔の苦労は話にならない。
 たしかに、手間がかかるだけで疲れる作業は、楽な方が農家もいいだろうし、コメも豊富で高品質なのは消費者にとってもありがたいことだ。


 しかし、そうした進歩と引き換えに、一昔前には存在していた開放的で広々とした田園風景、衣食の乏しい中でも互いに助け合って生きていた農村風景が、今日ではほとんど見られなくなった。人里離れた山村でさえ、もうふる里はなく、人もいなくなっている。
それらは人の思い出の中で遠くにある美しい絵のように活き続けていくだけなのだろう。