鄙乃里

地域から見た日本古代史

キャラクターがいる? 伊予松山城


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松山城 天守

 日本に名城はたくさんありますが、人気の上では、伊予松山城は常に上位にランクされています。

 松山城愛媛県松山市にある城で、戦国時代から江戸時代初期にかけての大名、加藤嘉明(かとうよしあき)が築城を始めた城です。

 加藤嘉明賤ヶ岳の七本槍で知られる豊臣家の家臣で、10万石の禄高で伊予正木城に居住していましたが、関ヶ原の戦いでは徳川方について20万石に加増されたため、近くの勝山という土地に新たな城を築くことになりました。
 そして普請奉行の足立重に命じて、慶長7年(1602)に築城を開始、翌8年には正木から勝山に移って、この地を松山と改称しました。現在の松山市です。

 しかし、松山城が完成するまでには長年月を要しましたので、全体の完成を見ることなく、その間の寛永4年(1627)に40万石で会津若松に転封になってしまったのでした。

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重要文化財の乾櫓 加藤嘉明時代の築造といわれる


 加藤嘉明転封後の松山城には、蒲生忠知(がもうただとも)が24万石(松山20万石、日野4万石)で入りました。蒲生忠知は蒲生氏郷(がもううじさと)の孫で、加藤嘉明と入れ替わりで、会津藩から松山藩に来たのです。
 しかし、その忠知は7年半ほどで病没し、継子もいなかったため、蒲生家は忠知の代で断絶になってしまいました。

 

f:id:verdawings:20210217170409j:plain  松山城 天守
 (3層3階 地下1階 高さ
約20m

 松山城は、城好きの方ならすぐ分るでしょうが、写真を見るだけで、だれにでも一目でわかる方法があります。

・一層目の丸印のところがキャラクター(山伏くんとか)の顔に見えませんか。

・二層目の丸印のところが女の子の顔に見えませんか。

 これを見れば小さな子どもにも、すぐ松山城天守閣だとわかります。

 もっとも、行ったらこんなの必要ありませんけどね。



 そこで寛永12年(1625)7月に、今度は松平定行が15万石で松山藩に封じられました。
 松平定行は徳川家康の甥で久松氏でしたが、家康の弟の子なので松平姓が許されたのです。以後は、明治維新まで久松松平氏の城でした。


 その松山城天明4年(1784)には落雷で焼失し、安政元年(1854)に再建されたと

伝えられますから、現在の天守閣はこのときのものでしょう。江戸時代以前の天守閣は「現存12天守と呼ばれて、全国でも数が少ないようです。

 

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 その初代藩主・松平定行の弟(四男)の定実(さだざね)は、大坂夏の陣*で戦功を立てたのですが、自分の持ち場を勝手に離れたとのことで家康から叱責を受け、このとき兄の定行の所領に蟄居させられていました。

 松平氏14代明治維新になり久松氏に戻りましたが、先年、松山にある定実の子孫宅から、定実の戦功を評価し擁護・激励する伊達政宗からの書状が発見されて、地元で話題になりました。

 アナウンサーの松平定知さんの御先祖らしいです。

 ということは、松平定知さんは、菅原道真公の御子孫でもあるのかな??

 その時歴史は動いた。

        * 定実のところ、大坂夏の陣関ヶ原と書き間違えていました
ので訂正しました。失礼しました。(3月17日)


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