鄙乃里

地域から見た日本古代史

東洋カープは広島城

 広島城天正17年(1589)毛利氏の当主、毛利輝元により築造されました。毛利氏の

本拠である太田川の広大なデルタに築かれたため、広島と名付けられたともいわれま

す。

 

 毛利氏は元の頃、中国地方の広範囲を領有していたのですが、関ヶ原の戦いで西

軍が敗れたため、長門と周防の2国に減封されて広島を去りました。

 

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 そのあとには福島正則広島藩49万8,000石で転封してきました。

 福島正則は豊臣時代は伊予の湯築城羽柴秀吉による四国攻略前は河野氏の館で道後

温泉の傍らにあった)や今治国府にいたことがあり、そこから、かつて織田信長

居城だった尾張清洲城に移り、関ヶ原後に広島藩主になったのでした。 

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 しかし、江戸幕府に無断で城の

修理を行ったことから、法度に背

いたとの言いがかりをつけられ、

こちらも改易されてしまいまし

た。それまでの移封先の領地では

土地を開拓したり善政をしいてい

たようにも思えますが、秀吉子飼

いの武将であったことや、自身の

的な格も災いしてか、江戸

幕府から煙たがられ、目を付け

れていたのかもしれませんね。

 

 その後の広島城には浅野長政

子、長晟(ながあきら)が42万石

で入り、明治の版籍奉還まで浅野氏12代の居城になりました。 

 

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 その時の城は原爆で焼失しましたが、昭和33年(1958)に広島復興大博覧会を記念し

て原型通りに天守閣が復されています。5層の天守で、別名は鯉城(りじょう)とも

呼ばれているそうです。

 地名の己斐(こい)から出世魚の鯉になったとされ、広島東洋カープの球団名は、ひ

つにはここか採用されているようです。
 

 広島城もまた外観が端正で美しい天守閣です。

 

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広島城の庭園内にあって、多くの御霊を祀っています

 

 広島の名産は牡蠣、海苔、広島菜漬、桜鯛の粕漬、そして日本酒。

 グルメはラーメン、お好み焼き。


 
阪神方面へ仕事で行くとタイガースを褒めないといけないが、広島へ行くとカープ

褒めないといけないらしいですよ。



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