鄙乃里

地域から見た日本古代史

祇園太鼓と小倉城

 空にひびいたあの音は たたく太鼓の勇み駒

 『度胸千両』のあばれ打ちで知られる小倉祇園太鼓。

 「小倉名代(なだい)は無法松」と歌詞にあるとおり、北九州市小倉は、小説『富島松五郎伝』の作者、岩下俊作(1906-1980)の出身地です。
 また、松本清張にもゆかりの土地であり、近年、城内にたいそう立派な松本清張記念館が建てられています。

 その小倉の町を流れる紫川(むらさきがわ)河口西岸の広い庭園(中央公園)の中に小倉城があります。紫川を挟んだ東岸は小倉井筒屋で、JR小倉駅からも近距離にあります。

 

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 築城年代は不明とされるも、小倉城の歴史はかなり古く、過去にはいろいろな変遷をたどってきたようです。
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 豊臣時代の一時期には森氏が毛利氏を名乗って入城していました。

 しかし、その後の関ヶ原の合戦で東軍について活躍した細川忠興(ほそかわただおき)が、慶長7年(1602)に39万石で領主となり、新たに築城を開始したのが今日の小倉城につながっているそうです。

 その細川忠興の子忠利寛永9年(1632)に54万石で熊本藩移封になったあとには、播磨国明石藩から小笠原忠真(おがさわらただざね)が15万石で入城。小笠原家として初代の小倉藩主となり、そのまま明治維新直前まで小笠原家が続きました。

 この間、本丸が天保8年(1837)の火災で全焼したのですが、再興後も天守は再建されなかったと伝えられます。

 その後、慶応2年(1866)の第二次長州征伐では、幕府と長州との前線基地となり、高杉晋作らが率いる奇兵隊の長州勢に敗れて、後退の際に自ら火を放って城を焼失させたということです。

 

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 したがって、現在の小倉城天守閣は昭和34年(1959)に昔の姿に復元したもので、外観コンクリート造りになっています。

 4階と5階の間には屋根がなく、5階の方が4階よりもせり出した構造になっていて、これは唐造りと呼ばれ、キリシタンの建築様式の影響を受けたものとも言われています。

 小倉城はさらに平成2年になって全面改装され、平成31年にも天守閣の内装がリニューアルされました。

 早くから親藩・小笠原家が入城していることから、九州諸大名監視目的の城だったと考えられます。

 

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 ほかに小倉藩に関連する話としては、寛永9年(1632)に播磨国明石藩から小笠原忠真が小倉に移封になったとき、その家臣だった宮本伊織が小倉に移ったので、養父の宮本武蔵も小倉へ同道して7年間ほど小倉に滞在したとのことです。

 しかし、巌流島の決闘は、これよりもかなり前の細川忠興時代の出来事とのこと。武蔵と小次郎は同じ小倉で剣術指南を務めていた関係から、弟子たちの争いに巻き込まれ雌雄を決するはめになった。また養父の新免無二斉と小次郎の因縁を晴らすため決闘に及んだとかいわれたりしますが、真相は不明のままです。

 その決闘時期については、小倉城の公式サイトでは慶長17年(1612)になっていました。20歳より前という古文書もあるようですが、武蔵はそれ以後、決闘はしなかったという巷説と、30歳以後は決闘をしていないとの『五輪の書』の記事が合っているし、1584年と想定される生年から数えてみると当時は29歳。そんなものかもしれません。

 晩年には細川忠利から熊本藩客分で迎えられましたが、小倉と宮本武蔵は若い頃から接点があったのですね。

 

 今日は祇園夏祭り 揃いの浴衣の若い衆は
 綱を引出し音頭とる

 小倉祇園祭八坂神社は、この小倉城公園の中にあるんですよ。
 小倉藩の守護神だったそうです。


 


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