鄙乃里

地域から見た日本古代史

吉野ヶ里遺跡の謎の墳丘墓

 吉野ヶ里遺跡の謎のエリアにある墳丘墓の発掘調査が行われマスコミを賑わせていました。邪馬台国の時代にあたる弥生時代後期の石棺墓ということで、佐賀県知事はじめ県民、マスコミ、古代史ファンまでが期待をもって見守っていましたが、特別な遺物は見つからなかったとのことです。

 


 今回の吉野ヶ里遺跡の石棺墓は、小倉南区城野遺跡で発掘された周溝墓の石棺とよく似ていますね。こちらも同じ弥生時代後期の墓で、石棺が二基並んでいて子供用の墓と考えられています。長い年月の間に溶けたのか骨もあまり残っていなかったようですが、それでも頭や体の形はくっきりと確認できます。被葬者の首元には数個の管玉があり、刀子や壺も添えられています。石棺内部は色鮮やかな朱が塗られ、歯も混じっていたとのこと。


 ところが、吉野ヶ里遺跡の石棺にはそれすらもなかったらしいのです。石棺内部の泥土や壁石に薄く朱が認められたので、ある程度の地位の高さが想像されるのと、城野遺跡の石棺に比べて丈が長く、大人の女性の墓ではないかというぐらいです。あと、蓋石に線刻がありました。

 
 邪馬台国時代の倭国の墓については『魏志倭人伝』に以下の記述があります。

其の死すや、棺有れども槨(かく)無し。土を封じて冢(つか)を作る。
                 
          講談社学術文庫 『倭国伝』)

 これが、当時の一般的な埋葬法だったのでしょうか。
 
 この墳丘墓はそれまで日吉神社があった場所で、老朽化により神社が移転したため発掘されることになったそうです。ググると未盗掘墓と書いてありましたが、ここには神社が出来る前の戦国時代にも城があったらしく、石棺の蓋も四個に割れていました。

 
 城野遺跡の蓋石も片方が二つに割れていましたが、もう一方は長い平石のままでした。吉野ヶ里のほうは自然に割れたのか? 
勝手な想像はよくないですが、過去に割られた可能性がゼロともいえないような気もします。副葬品どころか人骨や歯もぜんぜん残っていない空墓というのは不思議な感じです。


 発掘を見守っていた人の中には、もしかしたら、此の地が邪馬台国ではないか、九州説が復活するのではないか…と内心で期待された人がおられたかもしれません。マスコミもそんな扱いでした。それで、みんな少しがっかりしたのでしょう。


 自分的には『魏志倭人伝』に書かれた邪馬台国吉野ヶ里遺跡だとは思っていません。

 しかし、女王国自体は北部九州に存在していたのでしょう。
 倭はもともと百余国だったといいますから、倭国大乱などを経て集約され、そのうちのいくつかの小国が卑弥呼共立のときにまとまって九州の女王国を形成し、倭連合全体として三十余国になったのかもしれませんね。吉野ヶ里遺跡や城野遺跡もその一つの集落だったのではないかと想像します。

 ・九州地方に存在したと考えられる倭連合の国・

 対馬国壱岐国・松盧国・伊都国・奴国・不彌国・女王国(女王の都は邪馬台国

 女王国の南には狗奴国が接しているので、上記のほかに九州に倭連合の国はなかったようです。


 女王卑弥呼の墓は直径が150mほどあるそうですから、小さな墳丘墓ではなく、大きな円墳か、大規模な前方後円墳ではないかと思われます。それに、百人もの殉葬者がいたとしたら、周辺にもそれなりの形跡が認められてしかるべきでしょう。


 どんな遺跡も調査してみるまでは分からないといいます。たとえ今回は重要な発見がなかったとしても、それも一つの成果であり、それなりに別の何かを教えてくれるはずです。
 たしかに、重要な発見だったら考古学ファンでなくても当然ワクワクするものですが、そんな幸運にはめったに巡り会えるものではありません。小さな調査や研究を積み重ねることで、少しずつ過去の歴史が明らかになっていくことも、また古代史研究のいいところではないでしょうか。

 そんなことを感じさせてくれた今回の発掘報道でした。