先般のNHK「ブラタモリ」に新潟県の長岡市と燕三条が紹介されていて、その際に弥彦神社が出てきた。それほどメジャーという印象ではないが、古い歴史と重厚さを感じさせる神社だ。
古くは越後一宮で、延喜式の名神大社。旧社格は国幣中社だったが、現在は神社本庁の別表神社になっている。祭神は伊夜日子大神(いやひこのおおかみ)として天香山命(あめのかぐやまのみこと)を祀るとのこと。「伊夜日子」は弥彦のことだろう。
神社の由緒書きには次のように記されている。
社伝によると天香山命は第六代孝安天皇元年(西暦紀元前392年)二月二日に越の国開拓の神業を終えられ神去り坐して神劒峰(弥彦山)に葬られ、御子である第一嗣・天五田根命が廟社を築き奉祀した事に始まります。下って第十代崇神天皇の御代(御在位:紀元前97~30年)に、第六嗣(天香山命より七代)建諸隅命が勅を奉じて社殿を造営して以来、御歴代の天皇の勅による社殿修造がなされ、第四十三代元明天皇和銅四年(711)には勅により神域の拡張と神戸及び神領の境を定めたと伝えられております。
天孫降臨に供奉した命が「孝安天皇元年神去り坐して」は、ずいぶん長生きしたものだが、それにしても、かなり古い時代の話になる。
御祭神
天香山命は高倉下命(たかくらじのみこと)とも申し上げ、皇祖天照大御神の御曾孫(ひまご)にあたられます。父神は饒速日命(にぎはやひのみこと)、母神は天道日媛命(あめのみちひめのみこと)で、天孫降臨に供奉して天降られました。
天香山命を高倉下命としているのは『先代旧事本記』だが、高倉下は『日本書紀』にも登場する。
この「高倉」は天孫族の宝物を納めた高床式の倉庫で、高倉下はその「高倉」の管理者だという話を以前聞いたことがある。したがって、高倉下はその宝物を出し入れできるのである。神話上のシャーマン的な話か現実の話かは分からないが、そこから布都御魂(ふつのみたま)の霊剣を取り出して神武天皇一行に差し出している。
『日本書紀』が実名の天香山命と書かないで単に「高倉下」とのみ記したのは、高天原の指示との関係でそうしているのだろうが、『先代旧事本記』では、この高倉下は天香山命だと言っている。
神武天皇即位四年(西暦紀元前657年)、天香山命は越の国平定の勅を奉じて日本海を渡り、米水浦(よねみずがうら・弥彦山の背後・長岡市野積)に御上陸されました。当地では住民に漁業・製塩・酒造などの技術を授けられ、後には弥彦の地に宮居を遷されて、国内の悪神凶賊を教え諭し万民を撫育して、稲作・畑作を始め諸産業の基を築かれました。
その後「弥彦命」として、弥彦山に祀られたそうである。ほかの文書には和銅二年(709)八月上旬明神が降臨し、翌三年に社殿が造られ…とあるので、あるいは和銅二年に弥彦山の神(伊夜比古)が麓に降臨し、天香山命と習合されて今日の弥彦神社になっている可能性もある。境内摂社には尾張氏代々の命がそれぞれ祀られている。
奥宮は今も弥彦山山頂にあり、ロープウェイで上がれる。海際にあるため展望は絶好で、年間140万人もの観光客が訪れるという。実際は人気の隠れスポットだった。
天香山命の尾張氏と物部氏との関係は必ずしも明瞭でないが、弥彦神社公式サイトの系譜図では以下のように記されている。
この系譜によると饒速日命と天火明命は同一人と判断できる。『先代旧事本記』や「尾張氏系譜」で天道姫命が天火明命の妻とされているからである。また、天香山命の妻の熟穂屋姫命(うましほやひめのみこと)は宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)の姉妹になるため、天香山命と宇摩志麻遅命はこの点からも異母兄弟である。この系図が正しければ、そう解釈される。
本稿を書いているときに古いサイトのプリント記事が見つかった。
20年ぐらい前の記事でサイト名も失礼ながら忘れているが、メモ代わりにプリントしておいた断片である。
宇摩志麻遅命は、物部の兵を率いて、天之香山尊と共に、尾張・・美濃・越を平定し、そして、天之香山尊を、新潟県の弥彦神社に残した後、 さらに播磨・丹波を経て、石見国に入り、島根県太田市にある現在の物部神社で崩じられたとされています。
(http//akindo.k-server.org/kodaisi/mononobe.htm)
そこで、太田市の物部神社の由緒を調べて見ると、こちらにも同様の説明があった。
その後、御祭神(宇摩志麻遅命)は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊(きょうぞく)を平定し、厳瓮(いつへ)を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源) とされました。
次いで、御祭神は鶴に乗り鶴降山(つるぶやま)に降りられ国見をして、八百山が大和の天香具山ににていることから、この八百山の麓に宮居を築かれました。(折居田の起源) (ふりがなは筆者)
とあり、これらの記事どおりだとすれば、宇摩志麻遅命と天香山命は行動を共にしていたようで、親しい間柄だったことを窺わせる。やはり異母兄弟だったのか?
饒速日命は『先代旧事本記』で「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」と称しているが、それが正しいなら「饒速日命」は天火明命の豪族名ではないかと考える。
その根拠として『新撰姓氏録』では天火明命は天孫で、饒速日命は天神になっているが、これは天照彦(天火明命)のときは天孫系でよかったが、国照彦(饒速日命)になると子孫が物部連で天孫系ではまずいために天神系としているだけのことで、別人を意味するものではないように思う。
饒速日命については、そのほかにも素戔嗚尊の孫とか、大国主命の男とかいう説もあるらしい。また大歳、大国主、徐市だとかいろいろ言っている。
詳しくは知らないが、『日本書紀』一書でも天火明命は天照大御神の孫なので、素戔嗚尊にとっても孫にあたるだろうし、妻の天道姫は大国主命の娘ともいわれているので、婿養子と考えられるかもしれない。人によって解釈に諸説があるが、自分には饒速日命と天火明命は同人のように思われる。
それにしても、交通の不便な時代に、尾張だの越だの石見だの…と、古代人の行動範囲の広さと健脚ぶりにはまったく驚かされる。寝る間を惜しんで移動を繰り返していたのだろうか?