鄙乃里

地域から見た日本古代史

川岸に建つ漆黒の天守閣 岡山城

 岡山城は市内を流れる旭川西岸の湾曲部の高地に築かれた平城です。
 岡山城にも南北朝時代からの前史がありますが、豊臣時代に宇喜多直家の子、秀家が秀吉の養子になって肥前57万石を領し城を改修したのが始まりと伝えられます。

 しかし、その宇喜多秀家関ヶ原の戦いで所領を失い、次に城主となった小早川秀秋も病没したため、慶長8年(1603)に姫路城主池田輝政二男の忠次に28万石が与えられ、一族が明治維新まで世襲しました。


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 昭和になって岡山城天守閣は空襲で焼かれてしまいましたが、昭和41年(1966)に現在の天守閣が再建されています。

 3層6階の天守閣で、1階部分が不等変五角形に造られていますので、方角によって姿がぜんぜん異なって見えます。入母屋の妻側以外は漆黒の下見板が張ってあるので、烏城(うじょう)とも呼ばれるそうです。また、瓦に金箔が施してあるので、金烏城とも称されるとか。

 信州松本城も黒づくめ(白と黒)なので烏城(からすじょう)と呼ばれることもありますが、松本市では「根拠のない誤り」と断っています。岡山城旭川のそばにあるのだから、改修後は「金鵜城」にでもすれば良いと思うのですが。

 写真右の月見櫓(つきみやぐら)は池田氏が造った江戸時代初期の2階の櫓で、重要文化財に指定されています。

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 城の対岸(中州)には「日本三名園」の一つとされる後楽園があり、こちらは17世紀末に造られた藩主池田氏の庭園です。その間を流れる旭川を遡上すると、上流は湯原温泉や湯原ダムに至ります。

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 岡山城は再建から50年あまり経過するとはいえ、見かけはまだきれいな城です。しかし本年から
天守閣の大改修工事に入るそうですから、当分の間は見られなくなるのでしょうか。




 

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新国宝指定の雲州松江城

 松江藩天守

 松江城松江市の中心部にある亀田山の頂上を本丸に利用した平山城(ひらやまじろ)で、堀の水は宍道湖から引いています。慶長16年(1611)堀江吉晴により築城された5層6階の天守閣が現存しています。

 ただ、その堀江家は3代続いたあと嗣子がいなかったため、寛永10年(1633)に断絶してしまいました。

 その後の松江藩には京極忠高を経て、寛永15年(1638)に徳川家康の孫・松平直政(なおまさ)が信州松本城から転封してきました。そして、明治2年(1869)の版籍奉還まで松平氏10代が藩主として治めています。



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 松江城天守閣は最上階が望楼式で、下層の周囲に黒い下見板が張ってあり、入り口に附櫓(つけやぐら)があります。ほかに千鳥が羽を広げたような三角形の入母屋破風がついているところから、別名が千鳥城と呼ばれるようになったとのことです。


 天守閣の外観は細かい部分を除くと築城当時とあまり変わっていません。火災に遭っていないので、歴史の古い城です。明治の初め頃には廃城令によりこの天守閣も売りに出されたようですが、旧藩士篤志家により買い戻されたと伝えられます。


 松江城は古い絵葉書等を見ると国宝と書かれているものもあります。たしかに以前は旧国宝だったのですが、法改正により実際には途中で重文に変わっていたのです。しかしこの2015年7月8日、新たに松江城天守閣で5つ目国宝指定を受けたことから、県内外からの観光客も増えて話題になっているところです。


 天守閣そのものは国宝になっても変わっていないのですが、お城周辺の公園環境は以前と比べてかなり変化しているように見えます。通路の植え込みも、今ではずいぶん成長している様子です。以前は天守の入口付近に白い標柱がありました。この天守閣には何とか登っています。

 

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 月照寺

 松江城の西方にある月照寺松平氏代々の菩提寺です。初代松平直政が生母・月照院の名に因んで月照寺と名づけて再建したとのことで、月照院の墓所とともに、松平氏9代までの藩主の廟があります。

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 月勝寺にあるこの石の亀の伝説や加賀の潜戸(くけど)の話を『知られざる日本の面影』に書き残している小泉八雲ラフカディオ・ハーン)の旧居と記念館は、松江城の堀のすぐ北側にあります。

 ハーンが氏族の娘・小泉節子と結婚し暮らしたところで、 地元ではヘルンさんと呼ばれていました。

 記念館には背の高い机があり、これはハーンの眼がわるいため、用紙を眼に近づけないと文章が書けなかったからだそうです。この旧居も庭もこじんまりした印象ですが、1年余り暮らした松江の体験から、日本に関する名編が次々と誕生していったのでしょうか。

 

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 この雷電為右衛門の碑も、同じく月照寺にあります。

 大関ながら史上最強の力士といわれた雷電が、7代藩主・松平治郷のお抱え力士だったからだそうです。

 7代藩主・松平治郷はその号の一つから不昧公(ふまいこう)とも称され、茶の湯や茶道具に造詣が深かったことから不昧流の茶の祖とされています。松江では不昧公の名もよく知られています。 

 

 松江城天守閣は創建年が確認されて、とくに築城当時の姿をそのまま残しているところから、国宝に指定されているものと思います。


 


 

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