鄙乃里

地域から見た日本古代史

斉明天皇の「朝倉橘広庭宮」って どこ?(4)

 斉明天皇の「朝倉橘広庭宮」って どこ?(4)

 伊予説の磐瀬行宮について

 熟田津石湯行宮と朝倉宮の中継点になる磐瀬行宮(いわせのかりみや)は、伊予説によると(筑紫ではなくて)、伊予国宇摩郡四国中央市土居町)の津根宮です。

 その津脇の森に創建されたという旧名神大社村山神社には(見たことはないですが)姫神の神像と、70余体の近侍の木像が残されているとの話です。祭神は天照大神斉明天皇天智天皇で、そのうち天智天皇は白鳳8年3月の奉祭となっています。

 伊予西條藩の『西條誌』は、村山神社の伝承について以下のように紹介しています。

當社を椿の森と称ふるハ、誤りにて、津の傍ラにあるを以、津脇の森也と云、又伊和世の宮とも云、後チ長津ノ宮と、齋明帝の時、改メらるゝとも云、最モ後チに村山神社と改む、徃事悠々として、誰か其真を知らん、

 また社殿前にあるお宝塚は、斉明天皇財姫(たからひめ)に因んだ陵名だと考える人もいます。

社前に寳塚と云ものあり、方五間位に小高く築く、これハ、かの天皇天智天皇祭事終りて、神器を埋めたる跡也と云、一柳家の時、堀しめたるに、怪異あるに怖れて、其事止ぬと云、其時少々出たる也とて、左に圖せるが如キもの数多本社に藏む、

                       (『西條誌』稿本)

 江戸時代の西條藩主一柳氏のときにこのお宝塚を掘らせたが、途中で奇怪な出来事があったので、怖れをなして取り止めたとあります。その際の数点の発掘物が『西條誌』の絵図に載せられています。これ以外にもあるそうで、 笠のようなもの、鞍のようなもの、高麗犬のようなものが描かれ、何か分かりませんが古そうなものです。

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              *『西條誌』稿本より

 また『西條誌』の編者が当時に見た神社の門神と随神像の絵も掲載されていますが、熟田津の橘新宮神社の公卿神像と姿形が酷似しているように見えます。

 伊予説によると『日本書紀』による熟田津からの「御船を還す」の意味は、文字通り、やって来た方向へ船を帰すとの意味で、だから宇摩郡なんだと言っています。真否は分かりませんが、卜部兼方の『釈日本紀』に「兼方案之長津宮者伊豫國也」と書かれていることも論拠の一つとしているようです。

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 それから明治時代の「津根村地誌考」によると、村山神社には社記の写しというものがあり、旧(もと)の社記は天平5年3月のもので、越智某の記述によると伝えています。

在于宇麻大津長津
村山神社者 天皇御陵所祭神姫神以木像為別殿之神体也斉明七年三月 天皇自伊余之石湯御津還御之時御船此泊于於是詔于衆此地朕可住居與宮所以聚山之木御形代及為作近侍之生像為安置于宮室於焉天皇崩御皇太子是居于長津宮為継於御位而祠天神地祇而悠紀主紀之大御祭令為在而奉神璽於神床大刀穂平於 先帝之山稜然後與群臣議於万機而宝祚之無窮為誓也 于是惶百年後謹書遺者也 天平五年癸酉三月 越智[イ■ 言■]記

                      (『土居町誌』より)

宇麻大津の長津にある
村山神社は 天皇の御陵所で、祭神の姫神は木像で、別殿の神体である。
斉明7年3月に天皇は伊予の石湯の御津からお還りのとき、御船は此処に泊まり、これより人々に詔をされた。「此の地は朕の住居(すまい)とする宮所である」。 そのため山の木を集め、天皇の御形代(みかたしろ)と近侍の生像(せいぞう)を作って宮室に安置した。この時期に天皇が(朝倉宮で)崩御。皇太子はこの長津宮に居て御位を継ぎ、天神地祇を祠り、悠紀主紀(ゆきすき)の大御祭を執行させて、神璽(しんじ)と、神床大刀穂平を先帝の山稜(みささぎ)に奉った。そうして後に群臣と政(まつりごと)を協議して、宝祚(皇位)の無窮を誓った。
ここにかしこみ、百年後に、謹しんで書き遺すものである

天平五年(733年)癸酉三月 越智[イ■ 言■]記

 ここでは神器を「山稜に奉った」と書かれていますが、お宝塚は中大兄皇子が祭事を執行した場所です。そのため陵(みささぎ)というよりは斉明天皇の喪を仮安置した場所ではないかと考えられ、『津根村地誌』でも「殯斂 (ひんれん、かりもがり)」の地ではないかと解説しています。

 このように伊予説では、中大兄皇子が朝倉宮へ往来した磐瀬行宮は、現在の村山神社の社地だと言っているのです。

 その他にも伊予にはサプライズな説がありますが、それにしても、いったい、どこの何が「朝倉橘広庭宮」の真実なんでしょうか??
 斉明天皇が立ち寄った朝倉宮は3個所あっても別にいいとは思うのですが、斉明天皇崩御された「朝倉(橘広庭?)宮」は絶対に1個所でなけれぱなりません。それで、頭がこんがらかってしまうんですよね。

 斉明天皇は7月24日に朝倉宮で崩御され、8月1日には中大兄皇子が磐瀬行宮に天皇の亡骸を運んで帰ったように書かれていますから、想像ですが、今治朝倉の宝篋印塔の岡で葬祭の儀式を済ませ、土居町の磐瀬行宮でも皇太子が仮もがりの祭事を執行したのかもしれません。それから筑紫の朝倉へ運んでいって恵蘇八幡宮で12日の喪に服したと考えることも…。最終的には飛鳥へ連れて帰ったのでしょうから。

 とにかく、いろいろと謎が多い話ですね。

 

 斉明天皇の「朝倉宮」はこれで終わります。

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斉明天皇の「朝倉橘広庭宮」って どこ?(3)

 斉明天皇の「朝倉橘広庭宮」って どこ?(3)

 伊予説
 最後は伊予の朝倉説です。全国的には必ずしもポピュラーとは言えませんが、史料はかなり詳細なものがあります。

 越智郡(現在の今治市)の朝倉は古代において伊予の国府が存在した地域内にあります。古代伊予の豪族で小市(おち)国造でもあった小千氏(のちは越智氏と書く)の根拠地とされ、『日本霊異記』に載る「越智直」は当地の小千守興(おちもりおき)のことだと言われています。瀬戸内水軍の根拠地でもあるため、斉明天皇がこの地からかなりの軍兵を徴用したことも考えられるでしょう。

 その朝倉地区はもとより今治市内の各所には斉明天皇の足跡伝承が多く、中大兄皇子の伝承地もあります。

 朝倉の矢矧神社(やはぎじんじゃ)の由緒には次のように書かれています。

社伝によると、本社は二名の嶋(ふたなのしま)の主で越智氏の祖、小千ノ天狭貫王(あまさぬきのおう)の廟として祀られ、往古には朝倉宗廟本社と号した。斉明天皇、天狭貫王の廟へ御幸された時、朝倉の宮と改める。

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 その矢矧神社から少し南の方に行くと伏原正八幡宮(ふしはらしょうはちまんぐう)があり、ここは木の丸殿(このまろどの)の跡地だとも伝えられています。朝倉の木の丸殿は、後世に洪水で流されたといわれ、現在は朝倉下に小さな記念の建物が新築されているようです。

 その伏原正八幡宮のそばに才明(斉明、さいみょう)という地名と家があり、これは後世になって名付けられた地名だと思われますが、(聞くところによると)不思議なことに、その家に斉明天皇の位牌が祀られているということです。
              *絵地図は「朝倉ふるさと美術古墳館」のパンフレットより引用

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 さらに、才明(さいみょう)からまた少し南へ移動した大之原公民館の向かい側に公園風の小さな丘があって、その石段を上がると、もう一段高くなったところに台地のような場所があります。そこに古い石組みの宝篋印塔形式の石塔が建てられているのですが、朝倉ではこれを斉明天皇の供養塔」だと伝えていて、地元民によって大切に管理されています。そして、その場所からは朝倉のシンボル笠松(かさまつやま)が一望できるのです。

 ほかにも、しだれ桜の無量寺斉明天皇勅願寺で、斉明天皇に供奉(ぐぶ、おとも)をした無量上人開基と伝えられています。

                             
 また、地域が変わるのですが、西条市の橘新宮神社社家の古伝(江戸時代に書かれたよう)に、以下の記事があります。原文は漢文調の和文で読みにくいので、下に現代文を併記しました。

人皇38代齊明天皇之御宇到而新羅国王本唐ニ親ム依テ自本唐ニ加勢而新羅国ニ百濟国ヲ攻亡也于時百濟国王等本朝ニ落来而則チ救兵ヲ乞也天皇方ニ国王ガ乞所之志ヲ憐ミ玉而西国ニ到而救兵ヲ遣ト欲テ時ニ天皇當国當熟田津之石湯洲之橘新殿神宮ニ行宮シ玉也又是自而越知朝倉宮ニ遷座也爰於天皇崩玉也于時先祖等奉人馬而越智之朝倉宮宇摩之津祢宮ニ於両宮ニ奉供而當時之公事ヲ勤ル也故此御宇ノ救兵爰ニ止也…

(『西條史談』78号 橘新宮神社由緒記「高外樹城家傳之事(たかとぎじょうかでんのこと)」より)

 第38代斉明天皇の御代になって新羅国王は唐とよしみを結び、唐軍に加勢して百済国を攻め亡ぼした。この時百済国王等は我が朝に逃れ来て救兵を求めた。天皇は国王からの救援の願いを憐れと思われ、西国に出向いて兵を遣わそうと思い、この時、当国のこの熟田津(にきたつ)の石湯洲の橘新殿神宮に行宮を営まれた。また、これより越知郡の朝倉宮のほうに遷られ、此の地において天皇崩御された。この時、先祖等は人馬を差し出して、越智郡の朝倉宮・宇摩郡の津祢宮 (つねのみや。磐瀬行宮の地と伝わる現在の村山神社のこと)で両宮に御供をし、当時の公事を勤めた。そのため、この御代の救軍の出兵は出来なかったのである。             

 このときに、天智天皇が小千守興を将として救援に送ったとも書かれています。

 次は西条市中野の万年山保国禅寺(はねやまほうこくぜんじ)の縁起書です。現代文は同じように参考のために訳したもので、誤訳がないとも限りません。正しくは原文を読んでください。

日本紀斉明天皇七年春正月丁酉朔壬寅御船西征始就于海路乃至庚戌御泊于伊豫熟田津石湯行宮三月御船還至于娜大津于磐瀬行宮… 古来小説之中朝倉宮者為筑紫或為土佐殊記土佐之朝倉之書多矣朝倉之名三所共在故多誤曰土佐曰筑紫不知方所以有同名書兩歟日本紀明白曰豫州不曰土佐及筑紫又當国之好古者小説中誤見記土州者實為土州之想不知當国之為朝倉却引小説之誤為證為常談哀哉……橘島石湯行宮者熟田津也橘広庭宮者朝倉也

         (『保國禅寺歴代略記』享保16年(1731年)53世   渕九峰叟著)

日本紀斉明天皇7年春1月6日、斉明天皇の船は西に向かって航路についた。14日、船は伊予の熟田津の石湯行宮に泊まった。3月、船を戻して娜大津の磐瀬行宮に着いた…(云々)。              
 昔から小説(それほど取るに足りない説)のうちに朝倉宮は筑紫とし、あるいは土佐とする。とくに土佐の朝倉と記す書が多い。朝倉の地名は3箇所ともに存在するので、多くは誤って土佐と云い、筑紫と云う。その場所を知らず、同名であるがために、両所を書くのであろう。日本紀は明白に伊予と云っている。土佐または筑紫とは云わない。
 また当国の好古(故事好き)は小説のうちに誤って土佐と記すのを見れば、実際に土佐だと思い込む。当国の朝倉とすることを知らず、却って小説の誤りを引いて証拠とし、通説とする。かなしいことである。…橘島石湯行宮は(当国の)熟田津である。橘広庭宮は(当国の)朝倉である。

  「日本紀は明白に伊予と云っている。土佐または筑紫とは云わない(だから、磐瀬行宮も朝倉宮も同じ伊予の中なんだ)」と。これは強烈ですね。たしかにそのとおりです。ただ、国名を書かなくても難波津が摂津国と分かるように、娜大津は筑紫国だと分かるという見方もできますね。

 それから『伊豫温故録』の、新居浜市宇高(うだか)にある八旗神社(はちまんじんじゃ)の項にも次の記述があります。

宇高村にあり…中略…斉明天皇7年西幸の時伊豫國越智郡朝倉宮に居たまいしが崩御ありて皇太子仲大兄は宇摩郡長津宮に還りたまひ同年8月前将軍安曇比羅夫河邊百枝臣等を百済國に遣わさるる時軍船を造りたまふ地は今の垣生村にて字を船倉という其の時船材を伐り出したる處は同郡の船木村なりと言い傳う

     ※垣生(はぶ)、船木(ふなき)の地名は、現在も新居浜市にあります。

 これらの史料がどこまで信頼できるかの問題はあるのですが、伊予にもかなり広範な地域に、伝承また史料が残っているということです。

 因みに、斉明天皇の大和の御陵は『日本書紀』に小市岡上(おちのおかのへのみささぎ)と書かれていて現在、高取町車木陵もしくは明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳などに比定されています。そこで、これは私見になりますが、「小市岡」は、伊予朝倉の小市岡の名を冠したものではないかとの推論も可能でしょう。高取町車木陵は文字通り越智岡にありますし、牽牛子塚古墳は真弓(まゆみ)の岡ですが、越塚(小市はコシとも読める)と称されているようですから。たしか文武天皇の時代に、斉明天皇の陵墓修造が命じられましたが、その遣いを命じられた田中朝臣法麻呂(たなかののりまろ)も偶然でしょうか?持統天皇の時に伊予国司だったのです。

 次は伊予説における磐瀬行宮について。



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