鄙乃里

地域から見た日本古代史

斉明天皇の「朝倉橘広庭宮」って どこ?(2)

 斉明天皇の「朝倉橘広庭宮」って どこ?(2)

 土佐説
 土佐説の朝倉宮比定地は高知市朝倉に鎮座する朝倉神社です。朝倉神社は土佐二の宮で延喜式内社ですが、この土佐朝倉説は、昔はかなり有力な説だったようです。

   『土佐国風土記』にも、古社であることが紹介されています。

土佐の國の風土記に曰はく、土佐の郡。朝倉の郷あり。郷の中に社あり。神のみ名は天津羽羽の神なり。天石帆別の神、天石門別の神の御子なり。

                                 (読み下し文 『日本古典文学大系』 岩波書店

 神社の由緒書によると、その由来は以下のようです。

 朝倉神社は天津羽羽神と天豊財重日足姫天皇を祭り、福寿延命の神、文化の神、治世の神であります。
 上古社の御山は開発ノ神である天津羽羽神のヒモロギ(神体山)として御山全体を崇教の対象として畏敬せられ、やがて文化に伴い朝日さす南東の麓より拝むべく現在の所に社殿を建てられたので此の赤鬼山こそ古代宗教の名残りで県指定の史跡地で西南隅麓の古墳と共にゆるがせにできない土地柄であります。………中略………。
 斉明天皇七年朝倉宮に行幸せられ、仮の御殿を丸木で造られたので木の丸殿と申されました。御子天智天皇は「朝倉や木の丸殿に我居れば名乗りをしつつ行くはたが子ぞ」と御詠みになられておられます。そしてのち天智天皇勅語により斉明天皇を朝倉ノ宮に合せ祀られたとの事であります。
                                                  (延喜式内社朝倉神社略由緒より)

 ここには『日本書紀』の朝倉宮だと書かれています。その祭神の天津羽羽神は土佐一の宮である土佐神社の祭神の妻とも伝えられていて、土佐神社一言主神と味鋤高彦根尊を祀っています。『続日本紀』に高鴨の神と書かれている神社のようです。

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 土佐説では、この朝倉社の裏にある赤鬼山が、笠を着た鬼が天皇の葬いを見ていた山だとも言っています。一説に赤鬼山は事代主を祀っているという話もあるようで、たぶん同じ大和葛城山由来の神なので、土佐神社事代主神と考えているのだと思いますが、そうだとしたら、それらの神はみな出雲系ですから、その社の木を伐採して斉明天皇の御殿を造ったりしたら、たしかに怒りを買うかもしれませんね。実際は落雷で焼けたのか、洪水で流されたのか知りませんが、古代の人々には祟りのように感じられたのでしょうか。

 ただ朝倉宮は、磐瀬行宮(いわせのかりみや)から遷居したように書かれているのですが、土佐に磐瀬行宮の伝承地はとくに見当たらないように思われます。そのため磐瀬行宮を筑紫と仮定した場合は、豊後水道廻りの海路でわざわざ高知市まで行くことは、かなり大変な航海でしょう。また、なぜ土佐まで引き返すのかもよく分かりません。なので、もしかしたら、同じ四国内の伊予から山越えしたのではないか? とも推測されます。すると、その場合の磐瀬行宮は(後述する)伊予国宇摩郡の行宮を想定しないといけなくなるでしょう。

 たとえ、そうだったとしても、四国の山はけっこう高くて険しいです。
 今でこそ四国自動車道を走ると1時間半もあれば高知市まで行けますが、それでも、途中はトンネルの連続です。昔の山道なんか歩いていたら何日かかるか分かったものではありません。しかも斉明天皇68歳の高齢だったといわれていますから。

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 神社の由緒によると、たしかに「斉明天皇行幸せられ」と書かれているのですが、『日本書紀』の内容以外に、土佐で由緒の根拠となる斉明天皇に関する伝承はあまり聞いたことがありません。また、本来の行程から外れて、こんな遠方まで寄り道する必要性がほんとうにあるのだろうか、という疑問も浮かびます。そう考えると、土佐への行幸は、天智天皇だけの話だったのかも分かりません。というのも、土佐に関していえば、斉明天皇よりも天智天皇の伝承のほうが多く認められるからです。

 たとえば、大山祇神社の『三島宮御鎮座本縁』には(真否は別にして)こう書かれています。

39代天命開別天皇元年壬戌(662)七月天皇従土佐國御幸伊豫於温泉其御幸于[しんにゅう+向]戸横殿宮勅願長命富貴之鏡掛給云々

 39代天命開別天皇元年(壬戌)7月に天皇土佐国より伊予の温泉に御幸。それより瀬戸横殿宮に御幸し勅願。長命富貴(ちょうめいふうき)の鏡をお掛けになった…云々。

 この長命富貴鏡は、現在も大山祇神社に社宝として展示されています。

 それから、天保年間上梓の『西條誌』の村山神社の項にも次の記事があります。村山神社は伊予説における磐瀬行宮の比定地で、宇摩郡四国中央市土居町津根)に鎮座する名神大社です。

境内に、廣サ十坪程トの泉あり、御手洗と呼、天智天皇 土佐の朝倉より、此地に行幸ありて、天神地祗 を祭らるゝ時、盥漱(かんそう)ありし泉也と云、 

 それが何年の出来事かまでは書かれていないのですが、「土佐の朝倉より」とあるので、やはり『三島宮御鎮座本縁』と同年のことでしょうか? 伝承が事実であるなら、村山神社の森は土佐の朝倉宮と何らかの関連性があったのかもしれませんね。

 『西条市大保木村の歴史』(白石史朗著)にも朝倉の記事が載っています。大保木村は西条市の山間部にある石鎚山麓の村です。

中奥字千野々の工藤家は天智天皇土佐国朝倉へ行幸のとき、お供九條右大臣範良郷が朝倉木の丸殿に泊まり、同殿を守護し、国司神主となり、代々子孫が相勤め11代の孫従五位工藤山城守祐良の子工藤祐家が建久年(1190~1198)予州山中に大本大明神を山城国より勧請して住み着いた。 久左衛門の子孫に系図がある。

 これは工藤家の伝承には違いないのですが、かなり具体的に天智天皇土佐国朝倉の関連性に触れています。

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 上記のような理由から、土佐を訪れたのは天智天皇だけだった可能性も考えられるでしょう。由緒にも「天智天皇勅語により斉明天皇を合祀された」となっています。

 しかし何故、土佐の朝倉宮に天智天皇斉明天皇を祀った(と伝えられる)かについては、依然として謎が残るのです。まったく無関係だとしたら、そんな場所に祀ったりするでしょうか。そう考えると、斉明天皇が行かなかったと、いちがいに断定することも出来ないかもしれません。

 少し気になるのは、『日本書紀』に「ある本に」として、5月9日より以前の4月にも朝倉宮に遷居した記事が書かれているのですが、この記事をどのように解釈するのかによっても、朝倉宮の比定地がかなり違った結果になってくるのではないか…と思われます。朝倉神社の由緒書きには朝倉宮とあるだけで、朝倉橘広庭宮とは書かれていないようです。

 
次回は伊予説です。


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斉明天皇の「朝倉橘広庭宮」って どこ?(1)

 斉明天皇の「朝倉橘広庭宮」って どこ?(1)

 『日本書紀』によると、西暦661年に百済救援のため征西した斉明天皇が磐瀬行宮(いわせのかりみや)から朝倉宮に移ります。正確には朝倉宮と朝倉橘広庭宮となっていますが、この朝倉宮の比定地が3個所あるのをご存じでしょうか?

  最もよく知られて定説になっているのが筑前の朝倉ですが、朝倉は、ほかにも土佐の朝倉と、伊予の朝倉があるのです。

 筑前の朝倉説は三善清行あたりが言い出した説らしいと言う人もいますが、土佐の朝倉は『土佐国風土記逸文に「土左の郡(こほり)。朝倉の郷(さと)あり。郷の中に社あり。」とあり、こちらも古くは有力な説でした。伊予の朝倉は今治市の朝倉で、全国的な知名度は高くありませんが、市内の各所に斉明天皇中大兄皇子の足跡伝承が多く、伊予ではこれで決まりといった感じです。

 というわけですから、どこが真の朝倉橘広庭宮なのかは、ここではあまり深く追求しないことにします。ただ、それぞれの比定地が、どのような根拠の基に朝倉宮だと言われているのか、その理由を若干、調べてみたいと思います。

  筑紫説
 まず定説の筑前朝倉(福岡県朝倉市)ですが、こちらは『日本書紀』の「斉明紀」の流れからいっても、倭国百済との位置関係から考えても、当時の半島情勢から判断しても最も自然で、誰もが理解しやすい説と言えるでしょう。

 『日本書紀』には次のように書かれています。

七年春正月丁酉朔壬寅、御船西征始就于海路。甲辰、御船到于大伯海。時、大田姬皇女産女焉、仍名是女曰大伯皇女。庚戌、御船泊于伊豫熟田津石湯行宮。熟田津、此云儞枳拕豆。三月丙申朔庚申、御船還至于娜大津、居于磐瀬行宮。天皇、改此名曰長津。夏四月、百濟福信遣使上表、乞迎其王子糺解。釋道顯日本世記曰、百濟福信獻書、祈其君糺解於東朝。或本云、四月天皇遷居于朝倉宮。
五月乙未朔癸卯、天皇遷居于朝倉橘廣庭宮……略……。
秋七月甲午朔丁巳、天皇崩于朝倉宮。

 斉明天皇七年(661)春1月6日、天皇の船が西に向かって初めて海路についた。船が大伯の海に来た時、大田姫皇女が女子を産んだ。そこでこの女を大伯皇女と名付けた。14日、船は伊豫の熟田津石湯行宮に停泊した。…略…。3月25日、船は引き返して娜大津に向かい、磐瀬行宮に入った。天皇は娜大津の名を改め長津とされた。……略……。ある本が云うには、4月、天皇は朝倉宮に遷居された。……略……。
 5月9日、天皇は朝倉橘廣庭宮に遷居された。
 秋7月24日、天皇は朝倉宮に崩御された。

 1月6日に難波津を立った天皇の船は大伯海(通説は岡山県邑久郡とされる)から伊予の熟田津に着いた。その後3月25日に御船を還して娜大津(通説は博多湾岸の湊とされる)に向かい、磐瀬行宮(筑紫説は福岡市南区三宅を考える)に入った。そして5月9日になって、そこから朝倉宮に移られた。 『日本書紀』には、5月9日から斉明天皇が朝倉橘広庭宮に住まいして、7月24日に同じ朝倉宮で崩御されたことが記されています。

 このように解釈されるので、朝倉宮は九州であり、福岡市南区から直線で38キロほど南東へ離れた筑前朝倉(山田・須川あるいは杷木志波付近)だと考えられているようです。

 その付近には斉明天皇の足跡伝承も認められるようで、天皇崩御ののちに中大兄皇子が1年を12日に変えて喪に服したと伝えられる恵蘇八幡宮木の丸殿天皇の仮塚とされる御陵山(ごりょうやま)古墳、それに『日本書紀』の朝倉山に比定される麻底良山(まてらさん) なども近くです。

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 『日本書紀』には、先述の通り5月9日に斉明天皇が朝倉橘広庭宮に遷居して、7月24日に同じ朝倉宮で崩御されたことが記されています。
 
そして10月になってから(その仮塚からでしょう)天皇のなきがらが帰路に就き、飛鳥に運ばれたと書かれています。

 この朝倉宮筑紫説は、当時の状況や『日本書紀』の記事内容から判断しても、無理のない自然な流れなので、たしかに誰にとっても分かりやすい話です。
 したがって、筑前の朝倉宮が斉明天皇の本営であり、『日本書紀』の「朝倉宮」 はこの朝倉に間違いないとされて、現在の定説にもなっているわけです。ほとんどの人はこの説を採用しています。

 ただ筑紫説でも朝倉宮の正確な場所までは分かっていないらしく、現在も諸説が提唱されているように見受けられます。

 次回は土佐説です。


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