鄙乃里

地域から見た日本古代史

斉明天皇の「朝倉橘広庭宮」って どこ?(1)

 斉明天皇の「朝倉橘広庭宮」って どこ?(1)

 『日本書紀』によると、西暦661年に百済救援のため征西した斉明天皇が磐瀬行宮(いわせのかりみや)から朝倉宮に移ります。正確には朝倉宮と朝倉橘広庭宮となっていますが、この朝倉宮の比定地が3個所あるのをご存じでしょうか?

  最もよく知られて定説になっているのが筑前の朝倉ですが、朝倉は、ほかにも土佐の朝倉と、伊予の朝倉があるのです。

 筑前の朝倉説は三善清行あたりが言い出した説らしいと言う人もいますが、土佐の朝倉は『土佐国風土記逸文に「土左の郡(こほり)。朝倉の郷(さと)あり。郷の中に社あり。」とあり、こちらも古くは有力な説でした。伊予の朝倉は今治市の朝倉で、全国的な知名度は高くありませんが、市内の各所に斉明天皇中大兄皇子の足跡伝承が多く、伊予ではこれで決まりといった感じです。

 というわけですから、どこが真の朝倉橘広庭宮なのかは、ここではあまり深く追求しないことにします。ただ、それぞれの比定地が、どのような根拠の基に朝倉宮だと言われているのか、その理由を若干、調べてみたいと思います。

  筑紫説
 まず定説の筑前朝倉(福岡県朝倉市)ですが、こちらは『日本書紀』の「斉明紀」の流れからいっても、倭国百済との位置関係から考えても、当時の半島情勢から判断しても最も自然で、誰もが理解しやすい説と言えるでしょう。

 『日本書紀』には次のように書かれています。

七年春正月丁酉朔壬寅、御船西征始就于海路。甲辰、御船到于大伯海。時、大田姬皇女産女焉、仍名是女曰大伯皇女。庚戌、御船泊于伊豫熟田津石湯行宮。熟田津、此云儞枳拕豆。三月丙申朔庚申、御船還至于娜大津、居于磐瀬行宮。天皇、改此名曰長津。夏四月、百濟福信遣使上表、乞迎其王子糺解。釋道顯日本世記曰、百濟福信獻書、祈其君糺解於東朝。或本云、四月天皇遷居于朝倉宮。
五月乙未朔癸卯、天皇遷居于朝倉橘廣庭宮……略……。
秋七月甲午朔丁巳、天皇崩于朝倉宮。

 斉明天皇七年(661)春1月6日、天皇の船が西に向かって初めて海路についた。船が大伯の海に来た時、大田姫皇女が女子を産んだ。そこでこの女を大伯皇女と名付けた。14日、船は伊豫の熟田津石湯行宮に停泊した。…略…。3月25日、船は引き返して娜大津に向かい、磐瀬行宮に入った。天皇は娜大津の名を改め長津とされた。……略……。ある本が云うには、4月、天皇は朝倉宮に遷居された。……略……。
 5月9日、天皇は朝倉橘廣庭宮に遷居された。
 秋7月24日、天皇は朝倉宮に崩御された。

 1月6日に難波津を立った天皇の船は大伯海(通説は岡山県邑久郡とされる)から伊予の熟田津に着いた。その後3月25日に御船を還して娜大津(通説は博多湾岸の湊とされる)に向かい、磐瀬行宮(筑紫説は福岡市南区三宅を考える)に入った。そして5月9日になって、そこから朝倉宮に移られた。 『日本書紀』には、5月9日から斉明天皇が朝倉橘広庭宮に住まいして、7月24日に同じ朝倉宮で崩御されたことが記されています。

 このように解釈されるので、朝倉宮は九州であり、福岡市南区から直線で38キロほど南東へ離れた筑前朝倉(山田・須川あるいは杷木志波付近)だと考えられているようです。

 その付近には斉明天皇の足跡伝承も認められるようで、天皇崩御ののちに中大兄皇子が1年を12日に変えて喪に服したと伝えられる恵蘇八幡宮木の丸殿天皇の仮塚とされる御陵山(ごりょうやま)古墳、それに『日本書紀』の朝倉山に比定される麻底良山(まてらさん) なども近くです。

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 『日本書紀』には、先述の通り5月9日に斉明天皇が朝倉橘広庭宮に遷居して、7月24日に同じ朝倉宮で崩御されたことが記されています。
 
そして10月になってから(その仮塚からでしょう)天皇のなきがらが帰路に就き、飛鳥に運ばれたと書かれています。

 この朝倉宮筑紫説は、当時の状況や『日本書紀』の記事内容から判断しても、無理のない自然な流れなので、たしかに誰にとっても分かりやすい話です。
 したがって、筑前の朝倉宮が斉明天皇の本営であり、『日本書紀』の「朝倉宮」 はこの朝倉に間違いないとされて、現在の定説にもなっているわけです。ほとんどの人はこの説を採用しています。

 ただ筑紫説でも朝倉宮の正確な場所までは分かっていないらしく、現在も諸説が提唱されているように見受けられます。

 次回は土佐説です。


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