鄙乃里

地域から見た日本古代史

斉明天皇の「朝倉橘広庭宮」って どこ?(3)

 斉明天皇の「朝倉橘広庭宮」って どこ?(3)

 伊予説
 最後は伊予の朝倉説です。全国的には必ずしもポピュラーとは言えませんが、史料はかなり詳細なものがあります。

 越智郡(現在の今治市)の朝倉は古代において伊予の国府が存在した地域内にあります。古代伊予の豪族で小市(おち)国造でもあった小千氏(のちは越智氏と書く)の根拠地とされ、『日本霊異記』に載る「越智直」は当地の小千守興(おちもりおき)のことだと言われています。瀬戸内水軍の根拠地でもあるため、斉明天皇がこの地からかなりの軍兵を徴用したことも考えられるでしょう。

 その朝倉地区はもとより今治市内の各所には斉明天皇の足跡伝承が多く、中大兄皇子の伝承地もあります。

 朝倉の矢矧神社(やはぎじんじゃ)の由緒には次のように書かれています。

社伝によると、本社は二名の嶋(ふたなのしま)の主で越智氏の祖、小千ノ天狭貫王(あまさぬきのおう)の廟として祀られ、往古には朝倉宗廟本社と号した。斉明天皇、天狭貫王の廟へ御幸された時、朝倉の宮と改める。

f:id:verdawings:20200413223708g:plain

 その矢矧神社から少し南の方に行くと伏原正八幡宮(ふしはらしょうはちまんぐう)があり、ここは木の丸殿(このまろどの)の跡地だとも伝えられています。朝倉の木の丸殿は、後世に洪水で流されたといわれ、現在は朝倉下に小さな記念の建物が新築されているようです。

 その伏原正八幡宮のそばに才明(斉明、さいみょう)という地名と家があり、これは後世になって名付けられた地名だと思われますが、(聞くところによると)不思議なことに、その家に斉明天皇の位牌が祀られているということです。
              *絵地図は「朝倉ふるさと美術古墳館」のパンフレットより引用

f:id:verdawings:20200412175120j:plain

 さらに、才明(さいみょう)からまた少し南へ移動した大之原公民館の向かい側に公園風の小さな丘があって、その石段を上がると、もう一段高くなったところに台地のような場所があります。そこに古い石組みの宝篋印塔形式の石塔が建てられているのですが、朝倉ではこれを斉明天皇の供養塔」だと伝えていて、地元民によって大切に管理されています。そして、その場所からは朝倉のシンボル笠松(かさまつやま)が一望できるのです。

 ほかにも、しだれ桜の無量寺斉明天皇勅願寺で、斉明天皇に供奉(ぐぶ、おとも)をした無量上人開基と伝えられています。

                             
 また、地域が変わるのですが、西条市の橘新宮神社社家の古伝(江戸時代に書かれたよう)に、以下の記事があります。原文は漢文調の和文で読みにくいので、下に現代文を併記しました。

人皇38代齊明天皇之御宇到而新羅国王本唐ニ親ム依テ自本唐ニ加勢而新羅国ニ百濟国ヲ攻亡也于時百濟国王等本朝ニ落来而則チ救兵ヲ乞也天皇方ニ国王ガ乞所之志ヲ憐ミ玉而西国ニ到而救兵ヲ遣ト欲テ時ニ天皇當国當熟田津之石湯洲之橘新殿神宮ニ行宮シ玉也又是自而越知朝倉宮ニ遷座也爰於天皇崩玉也于時先祖等奉人馬而越智之朝倉宮宇摩之津祢宮ニ於両宮ニ奉供而當時之公事ヲ勤ル也故此御宇ノ救兵爰ニ止也…

(『西條史談』78号 橘新宮神社由緒記「高外樹城家傳之事(たかとぎじょうかでんのこと)」より)

 第38代斉明天皇の御代になって新羅国王は唐とよしみを結び、唐軍に加勢して百済国を攻め亡ぼした。この時百済国王等は我が朝に逃れ来て救兵を求めた。天皇は国王からの救援の願いを憐れと思われ、西国に出向いて兵を遣わそうと思い、この時、当国のこの熟田津(にきたつ)の石湯洲の橘新殿神宮に行宮を営まれた。また、これより越知郡の朝倉宮のほうに遷られ、此の地において天皇崩御された。この時、先祖等は人馬を差し出して、越智郡の朝倉宮・宇摩郡の津祢宮 (つねのみや。磐瀬行宮の地と伝わる現在の村山神社のこと)で両宮に御供をし、当時の公事を勤めた。そのため、この御代の救軍の出兵は出来なかったのである。             

 このときに、天智天皇が小千守興を将として救援に送ったとも書かれています。

 次は西条市中野の万年山保国禅寺(はねやまほうこくぜんじ)の縁起書です。現代文は同じように参考のために訳したもので、誤訳がないとも限りません。正しくは原文を読んでください。

日本紀斉明天皇七年春正月丁酉朔壬寅御船西征始就于海路乃至庚戌御泊于伊豫熟田津石湯行宮三月御船還至于娜大津于磐瀬行宮… 古来小説之中朝倉宮者為筑紫或為土佐殊記土佐之朝倉之書多矣朝倉之名三所共在故多誤曰土佐曰筑紫不知方所以有同名書兩歟日本紀明白曰豫州不曰土佐及筑紫又當国之好古者小説中誤見記土州者實為土州之想不知當国之為朝倉却引小説之誤為證為常談哀哉……橘島石湯行宮者熟田津也橘広庭宮者朝倉也

         (『保國禅寺歴代略記』享保16年(1731年)53世   渕九峰叟著)

日本紀斉明天皇7年春1月6日、斉明天皇の船は西に向かって航路についた。14日、船は伊予の熟田津の石湯行宮に泊まった。3月、船を戻して娜大津の磐瀬行宮に着いた…(云々)。              
 昔から小説(それほど取るに足りない説)のうちに朝倉宮は筑紫とし、あるいは土佐とする。とくに土佐の朝倉と記す書が多い。朝倉の地名は3箇所ともに存在するので、多くは誤って土佐と云い、筑紫と云う。その場所を知らず、同名であるがために、両所を書くのであろう。日本紀は明白に伊予と云っている。土佐または筑紫とは云わない。
 また当国の好古(故事好き)は小説のうちに誤って土佐と記すのを見れば、実際に土佐だと思い込む。当国の朝倉とすることを知らず、却って小説の誤りを引いて証拠とし、通説とする。かなしいことである。…橘島石湯行宮は(当国の)熟田津である。橘広庭宮は(当国の)朝倉である。

  「日本紀は明白に伊予と云っている。土佐または筑紫とは云わない(だから、磐瀬行宮も朝倉宮も同じ伊予の中なんだ)」と。これは強烈ですね。たしかにそのとおりです。ただ、国名を書かなくても難波津が摂津国と分かるように、娜大津は筑紫国だと分かるという見方もできますね。

 それから『伊豫温故録』の、新居浜市宇高(うだか)にある八旗神社(はちまんじんじゃ)の項にも次の記述があります。

宇高村にあり…中略…斉明天皇7年西幸の時伊豫國越智郡朝倉宮に居たまいしが崩御ありて皇太子仲大兄は宇摩郡長津宮に還りたまひ同年8月前将軍安曇比羅夫河邊百枝臣等を百済國に遣わさるる時軍船を造りたまふ地は今の垣生村にて字を船倉という其の時船材を伐り出したる處は同郡の船木村なりと言い傳う

     ※垣生(はぶ)、船木(ふなき)の地名は、現在も新居浜市にあります。

 これらの史料がどこまで信頼できるかの問題はあるのですが、伊予にもかなり広範な地域に、伝承また史料が残っているということです。

 因みに、斉明天皇の大和の御陵は『日本書紀』に小市岡上(おちのおかのへのみささぎ)と書かれていて現在、高取町車木陵もしくは明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳などに比定されています。そこで、これは私見になりますが、「小市岡」は、伊予朝倉の小市岡の名を冠したものではないかとの推論も可能でしょう。高取町車木陵は文字通り越智岡にありますし、牽牛子塚古墳は真弓(まゆみ)の岡ですが、越塚(小市はコシとも読める)と称されているようですから。たしか文武天皇の時代に、斉明天皇の陵墓修造が命じられましたが、その遣いを命じられた田中朝臣法麻呂(たなかののりまろ)も偶然でしょうか?持統天皇の時に伊予国司だったのです。

 次は伊予説における磐瀬行宮について。



f:id:verdawings:20200412174506j:plain