大山古墳について
大阪府堺市大仙町の大山古墳(だいせんこふん)は仁徳天皇陵とされ、クフ王の大ピラミッド、秦の始皇帝陵と並んで世界三大墳墓の一つに数えられるそうです。とはいっても、それぞれの時代はそうとう離れています。
ピラミッドも現時点では王墓と決まっているわけではないそうですが、大山古墳も仁徳天皇陵と確定しているわけではないらしく、古墳の被葬者については異論もあるようです。
堺市ホームページから引用(百舌鳥古墳群リスト 堺市 (sakai.lg.jp))
① 田出井山古墳 (伝・反正天皇陵、百舌鳥耳原北陵)
②-① 大山古墳 (伝・仁徳天皇陵、百舌鳥耳原中陵、大仙陵古墳)
⑮ 石津ヶ丘古墳 (伝・履中天皇陵、百舌鳥耳原南陵、陵山古墳)
異論の理由としては、だいたい次のようなことが記されています。
① 大山古墳(伝・仁徳天皇陵)から出土した円筒埴輪の年代が石津ヶ丘古墳(伝・履中天皇陵)のものよりも新しく、仁徳天皇の時代と隔たっている。
学術的な調査における築造年代は、履中(りちゅう)→応神→仁徳陵の順番になり、石津ヶ丘古墳(履中)の築造年代が5世紀前半、大山古墳(仁徳)の築造年代は5世紀中頃と考えられる。陵墓の指定が仁徳と履中で逆なのではないか?
② 大山古墳の築造年代は5世紀中頃と推定されるが、この時代の王は允恭天皇(いんぎょうてんのう)が相応しい、大山古墳は允恭天皇の陵墓ではないか?
③「民家の煙」で聖帝(ひじりのみかど)とされる仁徳天皇が、自分のために巨大古墳を築造させて民に苦役を強いるだろうか? …等々。
それでは、記紀にはどう書かれているのでしょうか。
これから判断すると、三陵すべてが百舌鳥の耳原に存在したことは間違いなさそうで、実際にも大王墓にふさわしい古墳が三基並んでいます。ほかにも大小の古墳がたくさんありますが、同じ方角を向いている三基がそうでしょう。
これらの天皇の関係は、仁徳天皇が父親で、その長子が履中天皇、三子が反正天皇(はんぜいてんのう)になります。ですから、その上下関係から考えても、在位期間の長短・事績の多寡から判断しても、仁徳・履中・反正天皇の順で陵墓の大きさや位置が決定されているのは、とくに不自然とは感じられません。宮内庁も『延喜式』に合わせて、仁徳(百舌鳥耳原中陵)、履中(百舌鳥耳原南陵)、反正(百舌鳥耳原北陵)と三陵を指定しています。
もちろん、宮内庁の治定が絶対に正しいとは限りませんが、記紀や『延喜式』に書かれている地名のかぎりでは、とくにこれを否定するような理由はなさそうに思われます。
大山古墳の築造年代が5世紀中頃という学術的な根拠は分かりませんが、天皇の崩御年と陵墓の築造年代は必ず一致しないといけないものなのか。在位中に完成される陵墓もあれば、次の天皇、またそれ以後にまで工事が続く陵墓もあるのではないかなどの疑問点もあります。
大山古墳は毎日2,000人が働いて15年8ヶ月かかると試算された方がおられるそうで、そんなにかかるのだったら、いくら着工が早くても、竣工時期が遅くなるのはやむを得ないでしょう。そう考えると、築造年代だけをもって古墳の主を推定するというのもいかがなものだろうか…との思いがしないでもありません。
仁徳天皇と陵墓
まず仁徳天皇に関していえば、宮内庁は仁徳天皇の崩御年を4世紀末と設定しているそうですが、『日本書紀』の編年に従っているだけで、明らかな誤認です。仁徳天皇は東晋に続いて421年に南朝の宗に使いを送った「讃」王に当たることは明白で、425年にも司馬曹達を宗へ送っています。
(文帝の元嘉2年、讃がまた司馬曹達を遣わして表を奉り、方物を献上した)
少なくともそのころまでは仁徳天皇が存命だったことは間違いありません。『古事記』の干支では427年が崩御年になっていますが、だいたい合っているのではないかと思います。
したがって、もし仁徳天皇崩御後に陵墓の工事が始まったとしたら、425年あるいは427年に工期の15、6年を加算すると、完成が5世紀中頃であっても少しも不思議とは感じられません。
結果として、大山古墳の完成時期が石津ヶ丘古墳のそれよりも遅くなったために、円筒埴輪が新式になっているだけと考えることもできるでしょう。円筒埴輪などは陵墓の完成後でも並べられるはずです。
先代の陵墓が完成してから、次の陵墓を造る。そんな悠長なことをしていたのでは大王の命が間に合わないのです。お后の陵墓や他の墳墓も造る必要があります。人手はかかるが、陵墓は幾つも並行して造ったと考えたほうがいいでしょう。
また普通に考えても、最大の中心古墳である大山古墳の位置が最初に決まってからでないと、その周辺の古墳は造りにくいのではないかと思うのです。
ただ、『日本書紀』によると、仁徳陵は寿陵(生前墓)のように書かれ、記事に従うと天皇崩御の20年ぐらい前に着工されたことになっているため、崩御の年までには完成していたようにも推測されます。
つまり、425年あるいは427年頃には完成していた可能性が高く、5世紀前半の築造になります。したがって、それを大山古墳に治定するためには、円筒埴輪だけでなく古墳本体の完成年代も詳しく調べて、年代を正しく確定し直す必要があるでしょう。
また、石津ヶ丘古墳(伝・履中天皇陵)を仁徳陵と考える理由にも一理があると思います。
まず築造年代が一致している(とのこと)。『日本書紀』に仁徳天皇が「石津原に出かけて、陵地を定められた」、そこが百舌鳥の耳原になったと書かれていて、石津ヶ丘と重なっていること。仁徳天皇の和名「大鷦鷯(おおさざき)」がミソサザイの古名「ミソサザキ(ミソサンザキ))」を由来としていて、のちのミソサザイ(ミソサンザイ)が、上石津ミサンザイ古墳(石津ヶ丘古墳はミサンザイ古墳ともいう)と似ていることなど、気になる点もあります。(ミサンザイ、ニサンザイは単に陵〈ミササギ〉が訛っただけともいわれますが、そのミササギの語源はというと、やはりサザキ〈鳥〉に由来するとの説があるようです。)
しかし、もしも石津ヶ丘古墳のほうが仁徳天皇陵だったと仮定した場合、では、そのときの大山古墳はいったい誰の陵墓と考えたらいいのでしょうか?
履中天皇と陵墓
次の履中天皇も王名は記されていませんが、おそらく文帝元嘉7年の遣使がそうだと推測され、
したがって、私見では「倭の六王」になりますが、履中天皇の在位はたったの5年間で、崩御年も仁徳天皇と5年ほどしか変わらないのです。やはり5世紀前半で、どちらが先であれ年代に大差はないのです。大山古墳のような巨大墳墓の築造を履中天皇が皇太子時代(仁徳天皇の時代)から開始するとは考えられないため、その場合は即位後の工事開始で、その間に2000人で15年以上もかかるという巨大墳墓を自分のために築造可能かどうかは常識で考えても分かり、允恭天皇の時代までずれ込むことは確実です。
しかし、在位期間5年の天皇のために日本最大の陵墓を15年間も継続して造るとは考えにくいのではないでしょうか(現行の履中陵でも第三位の大きさです)。また竣工が反正天皇よりのちの時代になるため、二陵墓間の前後関係も比較検討する必要性が出てきます。その上で、もし大山古墳の主が履中天皇では難しいとあれば、履中天皇陵は他の候補地を探さないといけなくなるのです。
允恭天皇と陵墓
次に、允恭天皇(いんぎょうてんのう)の陵墓ですが、記紀では別の地域に記されています。
允恭天皇…… 河内の惠賀の長枝 河内長野原陵 恵我長野北陵
(南河内郡美陵町国府)
安康天皇…… 菅原の伏見岡 菅原伏見陵 菅原伏見西陵
(奈良市宝来町古城)
雄略天皇…… 河内の多治比の高鸇 丹比高鷲原陵 丹比高鷲原陵
(羽曳野市島泉)
百舌鳥の耳原と河内長野では場所がかなり離れています。
宮内庁指定では藤井寺市国府にある古市古墳群の一つ「惠我長野北陵」がそうです。宮内庁の陵墓は江戸時代末期や明治時代の治定に準じているためミスマッチのケースもかなりあって、もしかしたら現陵と違っているかもしれませんが、それは宮内庁の問題であり、記紀の正誤とはまた別問題でしょう。大山古墳の推定年代以外にとくに根拠がないのなら、距離的にみても、允恭天皇を大山古墳の主にするのはかなり無理があるように思えます。
そうなると、どれが誰の陵墓か混沌としてくるので、やはり延喜式諸陵尞の通り大山古墳を仁徳天皇陵と仮定し、文献的には5世紀前半の築造として、それが適合しているか否かを学術的調査で今後もさらに精査して実証されるような方向でいくのが、いちばんいいのではないかと考えます。これまでの考古学調査だけで結論を出すのは早すぎて不十分です。
もっとも、陵墓の発掘調査は許可されていませんし、たとえ調査ができたとしても、古代エジプトの象形文字のように王名が記されていなかったら、結局のところ、埋葬者の特定は不可能に近いのかもしれません。宮内庁も、石室内に墓誌でも発見されないかぎり改めるつもりはないとのこと。
大山古墳の規模と巨墳築造の意味を考える
大山古墳は墳丘の全長が約486m、後円部径約249m、高さ約35.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9mの規模で三段構造になっています。墳墓を取り囲む濠は内・中・外の三重ですが、外濠は明治時代に造られたもので、元々は二重の周濠だったようです。濠も含めた全長は840m。周辺には10基以上の中小古墳があり、面積では日本最大の古墳とされています。
三陵は大山古墳を中心に、横から見た全長面が大阪湾に向き合うように配置されていて、当時の海岸線までの距離が2kmほどだったそうですから、明石海峡から大阪湾に船が入ると、遠くからでも古墳を望見することができたようです。
国内的に仁徳天皇がたとえ伝説のような聖帝だったとしても、外交的には王権としての思惑や立場があるのはもちろんで、以後の天皇も同様です。5世紀に倭の五王がわざわざ漢風の王名で南朝に朝貢しているのも、当時の東アジア情勢が影響しており、自国の外交的立場を強く意識しているからでしょう。
とくに高句麗の南下策に対しては倭王権の力を誇示する必要があり、朝鮮半島の経営に有利な爵位の授与を代々にわたって南朝に求めていたものと推測されます、また、百済や新羅などの使節来朝を意識して、倭王権の力を象徴する巨大墳墓を造り上げたのではないか――ともいわれています。
大山古墳と弓月君の関係は?
世界三大遺跡というと、各々が時代も国も完全に独立した遺跡のような印象を受けるし、実際にそうですが、もしかしたら当時の倭王権はギザのピラミッドや秦の始皇帝陵の存在を聞き知っていたのかもしれません。このころは、応神天皇の御代に弓月君らが大挙して大陸から渡来し、仁徳天皇の時代に活躍しています。のちに秦氏と称されましたが、『新撰姓氏録』によると秦氏は秦の始皇帝の子孫になっています(一口に秦氏といってもいくつかの系統があるため紛らわしいのですが)。また他方で、弓月君の秦氏が原始キリスト教徒であったことも様々な方面からうかがい知ることができると思います。
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それなら、秦の始皇帝陵やギザのピラミッドの話などは、秦氏の間では当然のこととして知れ渡っていたのではないでしょうか。それが本朝の権力者の耳にも伝わっていて、巨大古墳の築造計画に発展したとは考えられないでしょうか?
ギザのピラミッドはクフ・カウラ・メンカウラ三代の大ピラミッドが並んでいますが,百舌鳥耳原の古墳群も仁徳、履中、反正天皇に治定される三代の陵墓が同じ方向に並んでいます。もし百舌鳥・古市古墳群の巨大化に秦氏の帰化が影響しているとしたら、国や時代に隔たりはあっても、これらの世界三大遺跡の間には…意外と深い関連性があったのかもしれませんね。