鄙乃里

地域から見た日本古代史

世捨人とわびさびの里 嵯峨野

 嵯峨野大堰川桂川の上流)を隔てて嵐山と対する小倉山一帯に広がる土地を云います。ここも秋は紅葉の美しいところです。

 京福電鉄で嵐山駅まで行き、標準的な観光コースを歩きました。

 

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 天竜寺(てんりゅうじ)
 嵐山駅で降りて一応、渡月橋までは歩きましたが、橋は渡らずに京都五山の一つ天竜寺へ。天竜寺は足利尊氏後醍醐天皇の菩提のため延元4年(1339)に建立した寺で、夢窓国師の開山といわれます。

 また寺地は平安時代嵯峨天皇の皇后であった橘嘉智子(たちばなかちこ)が開いた壇林寺(だんりんじ)の跡だそうです。橘嘉智子はそのため壇林皇后と称されていました

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 野宮神社(ののみやじんじゃ)
 次に竹林の道を通り、野宮神社へ。野宮神社竹藪に囲まれた小さな神社です。
 嵯峨天皇の時代、伊勢神宮の齋宮(いつきのみや)に選ばれた皇女が伊勢に赴く前に一年間、潔斎された場所といわれています。いかにも嵯峨野らしさが感じられるスポットです。


 常寂光寺(じょうじゃっこうじ)

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 常寂光寺 入り口

  小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ藤原忠平

 常寂光寺は小倉山の中腹にあって、藤原定家の山荘「時雨亭」跡とも伝えられています。

 定家が「小倉百人一首」を撰定したという時雨亭跡は、ほかに厭離庵二尊院がその候補地になっていますが、いずれも近くにあります。

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常寂光寺仁王門

 

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 時雨亭跡


 落柿舎

 落柿舎は常寂光寺のすぐ反対側にある小さな庵で「蕉門十哲」の一人、向井去来(むかいきょらい)が閑居したところといわれます。別荘でしょう。松尾芭蕉も一時期ここに滞在して『嵯峨日記』を書いています。

 

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 松尾芭蕉の句碑

  さみだれや色紙へぎたる壁の跡   芭蕉



 向井去来の墓

 落柿舎の裏のほうに去来の墓があります。

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 去来墳への道標

 「こちらに去来先生の墓がありますよ」との意味です。

 

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 向井去来の墓

 自然石の墓石に「去来」と刻まれているだけ。

 現在の去来墓は柵に囲われて、墓石の様子もだいぶ変わっているようです。

  蛍火や吹きとばされて鳰のやみ  去来



 二尊院

 次は二尊院です。承和年間(834~847)慈覚大師の開山。天台宗の寺で山号は小倉山。本尊に釈迦如来阿弥陀如来の二尊をまつるところから、二尊院と呼ばれています。本尊はいずれも鎌倉時代の作とのことです。ここも時雨亭の候補地。


 祇王寺(ぎおうじ)
 二尊院から途中にある滝口入道の滝口寺を過ぎ、祇王寺に向かいます、木立に包まれた小さな草庵で、平清盛の侍女・祇王が清盛の寵愛を失い、出家して妹・母と共に余生を送ったところといわれています。そんな説明を聞くと、なおさら、うら寂しい感じがしてくるような尼寺です。

 化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)

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 無縁仏の石塔

 小倉山の東麓化野。野辺に風葬された死者を弔うため弘法大師が建てた寺といわれ、後に法然上人が念仏の道場にしたところから、念仏寺と呼ばれるようになったとのこと。この世は諸行無常か…はたまた、極楽浄土か。


 大覚寺(だいかくじ)
 最後に嵐山大覚寺貞観18年(876)に嵯峨天皇離宮を寺に改めたという門跡寺院です。嵯峨御所とも云われます。
 付随する大沢池は桜と観月の名所として有名で、池のすぐ横の道を通って寺に向かいましたが、文字通り大きな池です。

 ここもデュークエイセスの歌にある「京都・嵐山・大覚寺」で、本来はここだけでもかなり所用時間を要するのですが、余裕がないため、ざっと外回りだけを拝観。

 

 

 嵯峨野はまさしく浮き世離れしたわびさびの里でした。

 




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