鄙乃里

地域から見た日本古代史

思い入りつつ 鎌倉散歩

 鎌倉へ行ったのは2度だけで、そのうち1度は修学旅行です。

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 鎌倉大仏  高さ11.36m、総重量121t 金銅製。

 元は東大寺のように大仏殿の中にあったのですが、明応7年(1498)の津波で大仏殿が倒壊したとのことです。
 それ以後は露仏のままで、大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)に座しています。浄土宗の寺なので、大仏さまは阿弥陀仏とされています

 この写真でも前方に燈籠は見えますが、蓮の花はなさそうな…。

 

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 鶴岡八幡宮本宮(上宮)

 門の扁額の八の字はを図形化したものです。
 左右に阿吽の神像があります。

 明治の神仏分離令以前は鶴岡山八幡宮という神宮寺で、源頼義が京都の石清水八幡宮から由比ガ浜に勧請し、のちに源頼朝が現在地に移したそうです。

 承久元年(1219)1月27日のこと、鎌倉三代将軍右大臣源実朝が、この八幡宮拝賀の途中で暴漢に暗殺される事件が起こります。
 犯人の公曉は二代将軍頼家の二男または三男でしたが、頼家が横死したのち出家し、滋賀の園城寺(おんじょうじ)で修行したあと鶴岡八幡宮別当になっていました。そして父の横死の原因が叔父の実朝らにあると聞き、復讐を企てたのでした。石段途中の銀杏の陰に隠れて実朝を襲ったと伝えられています。

 その公曉も討たれて、これにより、鎌倉将軍家は滅亡します。


 ほかに江ノ島にも行ったと思いますが、島には渡っていません。

 

 北鎌倉

 2度目は東京から、北鎌倉まで行ってぶらぶらしました。


 瑞泉寺境内

 瑞泉寺嘉暦2年(1327)の創建とされる臨済宗の寺です。本堂の御本尊は釈迦牟尼仏開山は夢窓国師とのこと。

 地蔵堂どこもく地蔵があり、「どこも苦、どこも苦」といったそうです。人生どこへ行っても、楽なところはないそうです。今いるところで「地道にしんぼうしなはれ」ということなのでしょうか。(-_-)

 お地蔵さんも、きっといろいろなところから苦労して来られたのでしょう。

 

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 瑞泉寺境内の石碑

 死をいとい
 生をもをそれ
 人間のゆれ定まらぬ
 こころ知るのみ

 吉野秀雄(1902~1967)の歌碑です。
 吉野秀雄は高崎生まれの歌人で 、良寛研究家でもありますが、各地に歌碑があるので、きっといろいろな土地を旅されていたのでしょうね

 人間は常に迷っている
 迷っている間は
 常に何かを求めているのである

 ゲーテにもこんな言葉がありますね。
 人間迷うのが当たり前。迷わなくなったら、無気力か、蟻か、仏さん。

 

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 瑞泉寺境内半跏地蔵尊

 瑞泉寺の境内は暗かったからか、ストロボを焚いているようです。
 お地蔵さんもまぶしかったでしょうね。

 

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 浄智寺山門

 金峰山浄智寺(きんぽうさんじょうちじ)は弘安4年(1281)の創建といわれる臨済宗の禅寺。山門の上階は鐘楼になっているらしく、花頭窓のような感じです。

 

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 明月院

 永暦元年(1160)上杉憲方創建の明月庵が起源とされます。元は北条時宗が創建した禅興寺の塔頭でした。

 現在は臨済宗建長寺派の寺で、2500株のアジサイとして有名で

 

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 明月院


 鎌倉には鎌倉文士といって、かつては川端康成林房雄大佛次郎芥川龍之介小林秀雄高浜虚子…等々、多くの文化人の住居がありました。

 かの哲学者の西田幾多郎の住まいも鎌倉にありました。

 中間子の存在を理論的に予測して日本で最初のノーベル賞受賞者になった湯川秀樹博士は学生時代に西田幾多郎の講義をよく聴講していて、のちには鎌倉の家も度々訪ねたそうで、そのときの歌が自伝の『旅人』に書かれています。

 鎌倉やかしこのはざまここの谷深くも人は思い入りつつ

 日本の大哲学者の散歩姿をなつかしんで、詠まれた歌のようです。

 鎌倉の散歩道は作品を構想したり、思索したりするのに向いているのかもしれませんね。

 私も同じように歩いたのですが…、何の発見も思い浮かびませんでした。(^^;)
 その代わり、犬、いや、猫に出会いました。

 人も歩けば猫に当たる 

 

 

 


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天逆鉾が語る記紀神話の世界へ 霧島

 宮崎県のえびの高原は前に書いているので、重複するところもありますが、今回は霧島市です。

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 韓国岳から新燃岳高千穂峰を望む(当時の観光案内から)

 霧島国立公園は鹿児島県・宮崎県にまたがる火山群を中心とした雄大な自然美で知られる景勝地で、古代の伝説や史跡に富み、麓の高原には豊富な温泉が湧き出しています。

 現在は霧島錦江湾国立公園の一部になっています。

 

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 観光案内の略地図

 

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 高千穂峰逆鉾(当時の観光案内から)

 現在の逆鉾(さかほこ)は頂上の岩に無造作に挿してあり、その周囲をチェーンで囲っているだけです。ちょっとした鳥居もありますが、一目でレプリカだと分かります。この写真のようにきっちりと柵で保護され、祠もあるような写真はウェブで調べても1枚も見つかりません。これもレプリカかもしれませんが、いつの時代の写真なんでしょうかね??

 今の場所は(向かって少し右上になるのかな。いつ差し替えたものか?

 

 

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 霧島神宮社殿正面(当時の観光案内から)

 霧島神宮は鹿児島県霧島市にある旧官幣大社で、最初は第29代欽明天皇の時代に高千穂峰と噴火口(御鉢)の中間(背門丘)に祀られていたといわれます。とはいっても、何を祀っていたかは不明です。

 

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 霧島神宮の鳥居と石段

 

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 三の鳥居と社殿

 神社の由緒によると、御鉢噴火のため山上から高千穂河原に遷されたあと、何度かの変遷を経て、宮崎県の霧島神社と別れ現在地に移動したらしく、その後も失火で焼けたりしているようです。

 現在の社殿は、正徳5年(1715)に21代島津藩主の吉貴公により再建されたもので、すでに300年を経過し、国の重要文化財に指定されているとのこと。

 

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 拝殿から本殿へ(登りの廊下がありました)

 主祭神は瓊瓊杵命(ににぎのみこと)。相殿には木花咲耶姫(このはなさくやひめ)ほか5柱を奉祭。

 

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 丸尾の滝

 丸尾温泉の近くにある落差20メートルの滝。


 丸尾温泉からも遠くない塩浸温泉(しおひたしおんせん)は、慶応2年坂本龍馬とお龍夫妻が新婚旅行に来たところ。ここで龍馬は寺田屋事件の傷を癒やしたといわれます。

 その際、高千穂峰に登り、二人で逆鉾を抜いてまた挿しておいたと龍馬の手紙にありますが、そのときの逆鉾には鉾先がなくて、柄の部分だけだったようです。


 この逆鉾って、だれが、いつ何のために置いたのでしょうか? 聞いてみたいものです



 


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