鄙乃里

地域から見た日本古代史

卜伝流と松本豊後守 ①

 愛媛県西条市小松町安井の山中に戦国時代の山城跡がある。松尾城と称して、松本豊後守という小城主が居を構えていた。


 天保13年上梓の『西條誌』喜多川村の項に以下の記述がある。

 ○ 百姓 林左衛門
古き家にて、先祖松本兵部丞秀範と云もの、上
杉家に属す、其孫備前守政信、卜傳流の剣術を
創む、其子政之、江州志賀郡大津松本の地より
當國へ渡り、松本豊後守と名乗、周敷郡赤穂の
城に居しと云、ヶ様に系譜を書たるものを持
傳ふ、もしいよいよ然らバ、今の零落せる様、憐ムヘし

 それによると、松本豊後守は鹿島神流創始者の松本備前守政信の子で、その政信の祖父が松本兵部丞秀範だと書かれていた。

 しかしこの系譜には、それぞれのつながりが詳述されていないため、不可解な点も多そうである。

 先ず、松本備前守政信と松本兵部丞秀範について調べてみよう


    


 松本備前守政信と松本兵部丞秀範の関係とは如何なるものなるや?

 松本備前守政信は『鹿島治乱記』他によると、常陸国鹿島神宮の神官家の生まれで、小神野家、額賀家、吉川家とともに鹿島家の四宿老とされている。香取神道流の祖・飯篠長威斎家直(いいざさちょういさいいえなお)の門人になり、鹿島神宮に祈願して鹿島神流を創始。「一の太刀」を体得して塚原卜伝に伝えたともいわれる。
 後年、戦国期の大永4年(1524)に、鹿島一族の内紛に巻き込まれ、高間原(高天原)の戦いにおいて57歳で討死した。

 
 一方、『西條誌』で政信の祖父とされる松本兵部丞秀範(元実)は、信濃国八幡宮(筑摩神社)の宮司だったが、その後に山内上杉家を頼って関東へ移ったといわれる。

 信州松本に鎮座する筑摩神社(つかまじんじゃ)本殿は、永享8年(1436)に戦乱のため焼失したそうで、松本市のHPによると「本殿は松本小笠原中興の英主といわれる政康が永享11年(1439)に建築・寄進したものです。」と説明されている。

 つまり、小笠原氏以前には、そこに筑摩神社の神官だった松本氏がいたわけで、おそらくは神社を焼かれ土地を失ったため、関東の山内上杉家を頼ったものと思われる。


 それを裏付ける史料として、上杉家の歴代家臣の中に、 

松本元実表部秀範 永享頃(1429~1441)

の名が確認できることから、永享8年以後に上杉家に仕官していたことは間違いなさそうだ。

 
 そのほかにも、茨城県立歴史館史料部が最近調査した関東管領山内上杉氏家臣・兵部少輔元□書状」という文書が公開されていて、これは上杉家の「兵部少輔元□」から常陸の鳥名木(となぎ)入道宛てに送られた書状で、内容の詳細は下記PDFに掲載されている。

 茨城県立歴史館 所蔵史料紹介 

 その文書には差出人の「兵部少輔元□」の姓が書かれていないのと、最後尾の一字が欠けているため誰か分からないとのことだが、これはまさしく松本兵部丞秀範(元実)のことではないかと思われる。この時点で奉行職になっているので、「丞」から「少輔」に変えられただけで、山内上杉家奉行職の松本兵部少輔元から、同じく、当時の山内上杉家被官だった常陸大掾庶流の鳥名木国義に宛てた返書と考えられるだろう。

 内容を解読された研究員の方は、この文書は嘉吉2年(1442)11月13日付けの書状で、山内上杉家の当主は上杉清方と考証されている。嘉吉は永享(1429~1441)の次の年号なので、筑摩神社から永享8年(1436)以後に家臣になった松本兵部丞秀範(元実)の仕官時期と正しく合致している。したがって、この書状に鎌倉と常陸の関係を垣間見ることは出来るだろう。

 ただし、それだけで、松本兵部丞秀範と松本備前守政信のつながりを証明することは出来ないので、両者の関係はまだ不明といわざるをえない。


 『西條誌』の林左衛門系譜では祖父と孫の関係にあるが、「松本兵部丞秀範――○――松本備前守政信」と、父親の名○が記されておらず、他の資料を調べても、そのへんは不詳になっている。

 鹿島神宮の神官の家に生まれ、鹿島家の重臣、かつ著名な剣豪でありながら、父親の名が不明というのは不思議な話だ。山内上杉家の松本兵部丞秀範と松本備前守政信との間にはどんなつながりがあるのか。鹿島神宮祝部の生まれが事実なら、少なくとも父親の代には神官の身分でなければならないが、山内上杉家家臣の祖父から、わずか一代の間に、そのような関係が築けるのだろうか?

 『西條誌』に祖父の名があって、父の名が書かれていないのはどういうわけなのか? 鹿島神宮祝部の生まれとされる伝承が誤っているのか、それとも祖父と孫の系譜のほうが間違っているのか、どちらも正しいとしたら、父親の代にはどのような出来事があったのか?等々の不明な点が多く、林左衛門系譜を頭から否定するわけではないが、自分が調べた限り、松本兵部丞秀範(元実)と松本備前守政信の結び目は確認できなかった。


 そのため、系譜の真実性をこれ以上説明しようとすると、次のように想像するしかなくなる。

 もともと筑摩神社の神官だった松本兵部丞秀範は、書状の相手である鳥名木国義と姻戚関係を結び、常陸大掾家を通じて子息を鹿島神宮の神官に加えてもらった。その後に孫の松本備前守政信が生まれ、彼が武芸百般に優れていたため、鹿島家宿老に名を連ねることになった。

 こんなふうにこじつけてみたが、真相は、はたしてどうだろうか?
 

 次は、松本豊後守と松本政信の関係について検証してみたい。


    


 松本豊後守が松本備前守政信の子息たる話はまことなりや?

 松本豊後守は『西條誌』では「政之」になっているが、「頼全」とか「政能」とか書れている記事も見かける。

 大永年間(1521~1528)に近江国志賀郡松本(現在の大津市松本)から、伊予国周敷郡(現在の西条市小松町)に移ってきたと伝えられている。なぜ伊予国にやって来たのかまでは分からない。

 卜伝流の松本備前守政信は常陸に住んで子息の松本右馬允政元に自分の武芸を伝えているのに、それとは別の男子がなぜ、志賀郡松本(大津市松本)なんかにいたのだろう? という素朴な疑問が湧く。


 その件に関して、近江国志賀郡松本にも当時、松本城が存在しており、松本流弓術の開祖とされる松本民部少輔という城主がいて、その4代にあたる政能が伊予国へ渡って周敷郡の松尾城主になったという説がある。また別に信州の松本氏の後裔だという話もネット上で見かけた。どれも話だけで有力な史料や根拠はないが、どちらも志賀郡松本から伊予へ移った点では一致している。

 この線なら、なるほど納得がいきそうだ。但し、その場合も父親の人名は書かれておらず、また『西條誌』の百姓林左衛門のような話もあるためか、中には、次のような系図も散見される。 

松本民部少輔――松本兵部丞秀範――○――松本備前守政信――松本豊後守

 一見するとまともらしい系図に見えるのだが、しかし、この系譜に実際の根拠があるかといえば、首を傾げざるを得ない。

 松本民部少輔は、年代を見ると、松本兵部丞秀範よりも後の武将なので、この系図は意味をなしていない。むしろ、伊予の松本豊後守が本人、もしくはその男子とすれば、年代的にはだいたい適合している。志賀郡松本という場所でも一致している。


 剣豪の松本備前守政信は長享二年(1488)に上洛して将軍足利義尚に拝謁し、義尚から諱の一字を賜って尚勝と改めている。剣術指南をしながらしばらく逗留していたらしく、江州を訪れる機会はあっただろうし、その間に庶子が出来なかったとはいえないが、かなり考えにくい話だ。

松本尚勝(政信)
生没年 (1468-1524)
上洛年  長享二年(1488)

松本豊後守
生没年 (不詳)
伊予来住  大永年間(1521~1527)
                                                        
 とにかく、この系図は、志賀郡松本と松本備前守政信が結びつくように作成されているようで、うまく出来すぎた系図のように思える。

 

 手許にないが、西条市の『丹原町誌』には、松本豊後守について次のことが書かれてあるそうだ。

松本氏は近江源氏嫡流で江州蒲生郡の松本家の流れといわれ、丹原町大字長野の松本家の祖先である。

 この蒲生郡松本家」とは吉田上野介重賢(道寶ことで、その四男が松本城の松本民部少輔である。松本豊後守もその流れかもしれない。

 

 

 次回は、伊予における松本豊後守の動向と伝承の疑問について考えてみたい。