鄙乃里

地域から見た日本古代史

室生寺から天理まで 山辺の道を歩く

 奈良の 山辺の道を歩いたのは八月もお盆で、台風通過の日でした。

 少し古い話なので記憶がはっきりつながらないのですが、その前に室生寺大和長谷寺を訪れているかもしれません。両寺の拝観券が手許に残っているのです。

 どちらにしても、ここでまとめて書いておくことにします。

 

 室生寺

 室生寺女人高野といわれる寺ですが、昔は真言密教の道場だったそうです。

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 室生寺へ行くには、近鉄室生口で降りて、バスで室生寺前まで行きます。そこから川を渡って寺の境内に入り、かなり急な石段をずっと上まで登りました。

 写真でよく見る国宝五重塔は、その石段の上に聳え立っています。高さは16mほどで、そんなに高くはなかったのですが、均整がとれた優美な塔という印象でした。ただその塔も、後年の台風で傍らの杉の木が倒れかかって、屋根が無残に破壊されるという災難に遭遇しています現在は修復されています。

 さらに、上方にはまだ奥の院があったようですが、時間がなくて上がれませんでした。

      

 長谷寺

 長谷寺真言宗豊山派の総本山。西国三十三ヶ所観音霊場の八番札所でもあり、牡丹の寺としても有名です。

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 山岳信仰の霊地で、由緒によると朱鳥元年(686)天武天皇の勅命により弘福寺(飛鳥の川原寺)の法師道明が創建した本長谷寺に始まる、と伝えていて、本長谷寺の三重塔(多宝塔でしょうか?)の礎石も遺っているそうです。
 
 仁王門から本堂に至る間には長い上りの廻廊があり、門の柱や梁のいたるところに紙の札がペタペタと貼り付けられていました。

 現在拝観できる本堂は3代将軍徳川家光の寄進により慶安3年(1650)に再興されたものといわれ、本堂前の張り出しが、清水寺のような舞台構造になっています。

 本尊は十一面観音菩薩立像。10mもある大きな木造仏ですから、たぶん御利益も相応にありそうですね。

 長谷寺の御守りは小さいのを持っています。

 

 山辺の道

 二寺訪問と同日であれば、その後に、桜井のあたりから山辺の道に入ったのかなと思います。  
 台風の雨は桜井付近に来るとだいぶ収まってきましたが、足下には水が流れ、まだ強風は静まりません。脇道に迷わないように歩くのが精一杯で、写真撮影どころではありません。それにカメラも持っていなかったのです。スマホなど影も形も、想像すらできない時代なんで…。とにかく歩き始めました。

 ただ、これまでは完全に忘れていたのですが、その時に書きつけたらしい短歌の手帳がたまたま見つかりましたので、それを写真代わりに挿入したいと思います。

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     桜井から天理までの山辺の道

 山辺の道は桜井から天理までだと15kmぐらいだそうですが、途中に社寺や古墳があるため、それらに一々立ち寄っていると結構、時間を費やします。
 台風で道にはみ出した草木を避けながら濡れた道を歩いて行きます。


  細き径たどるがごとに万葉の胸に滲み来るせせらぎの音(ひなもり、以下同じ)

  人麻呂もかよひし道か山辺の今はそれとは定めがたきが

 まず大神神社(おおみわじんじゃ)に参拝しました。

 境内は正面に徳川家綱が造営したという横長い拝殿があり、その向こうに禁足地はありますが、神殿はありません。ご神体は三輪山(磐座)そのものです。『古事記』には三輪山は御諸山(みもろやま)と書かれていて、古くは「神」「美和」などとも記されています。

 一般の神社の様式としては、最初に鳥居があって、その奥に拝殿と神殿があるのが普通なので、大神神社の最初の形は鳥居禁足地だけで拝殿はなく、拝殿は後年になって造営されたことが分かります。

 境内にある巳の神杉(みのかみすぎ)というのも思い出しました。根元の穴に大きな青大将が何匹も棲んでいて、芸人や水商売の信仰を集めているというものです。三輪山の神様は蛇だともいわれる所以でしょうか。

 拝殿と禁足地の間には三ツ鳥居があったらしいですが、このときはただ拝殿に向かって頭を下げただけなので、詳しくは覚えていません。横一列の三ツ鳥居なら桧原神社(笠縫邑の伝承地)その他の神社にもありますね。どちらも四本柱なので、三角形の三柱鳥居とはまた別物かもしれません。三柱鳥居のほうは「三位一体の盾」に似ていますね。

 三輪山は三神を祀るため、鳥居も一体に組み合わせているとの説もあります。でも、実際は謎らしいですね。三神も想像だけで誰のことか明瞭ではありませんが、大物主は三神一体の神様なのかな?

 三輪山山麓に沿った細道を歩いていくと、山側の各所に「立入禁止」の札が掛けてあります。風もだいぶ静まり、周囲からは葉擦れの音、鳥の声、水の流れる音ぐらいしか聞こえて来ません。町中では考えられない静けさです。まさにこの山中には神が鎮まっているという感じで、もしかしたら、どこかで山の神様と遭遇するのではないか。そうしたら、逃げ出すか…、挨拶するか…。どうしたものかと思案しながら歩いていきます。


  仰ぎ見る弓月の嶽に霧立ちて三輪山を背に野の道をゆく

  大兵主鳥居のわたりに黒雲の三輪よりさしてにわか雨よぶ

 兵主社(ひょうずしゃ)の付近に来ると、そこは峠のように高くなっていて二上山がよく見えます。
  「味酒三輪の山…」という額田王の万葉歌が思い出されるような場所です。天智天皇が都を近江に移したため、そちらへ向かって行く途中で詠まれた歌のようです。


  二上と生駒の連山見おろして吾佇てるかな兵主社の坂に

  二上も生駒も奈良もあおあおと緑したたる雨上がり道

 
やがて広々とした野の中に景行天皇ほか大小いくつもの古墳が現れ、予備知識がない旅人には、どれが誰の古墳だか全然分かりません。それに脇道へ入らないと行かれないので、ただ山辺の道のほうから「なるほど」と遠望しながら通り過ぎるだけのこと。

  二上を望みつ巡る細道は青柿ゆるる景行の杜

  稲田道水の流るる踏みゆけば広き岡上(おかへ)に景行陵現(み)ゆ

 そこからまた少し歩いて、次は崇神天皇に到着しました。陵名は「山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのへのみささぎ)」、古墳名は行燈山古墳といって、「勾」の意味は不明ながら、山辺の道を曲がった低い丘のようなところにあります。あるいは、推測に過ぎませんが、古墳が東西に正しく向いていないための陵名なのかな?と想像したりもします。

 陵墓の周囲を青緑の水をたたえた深そうな壕(ほり)が巡っていて、古墳の中でもとりわけ形の整った前方後円墳です。全体に古色感が顕著で、壕の向こうの杜の中にはいったい何が隠されているんだろう?と想像するのも難しいような厳かさがありました。この「崇神天皇」は宮内庁の治定によるものなので、実際に崇神天皇の墓かどうかはまた別の話。考古学的には確定されていないそうです。 

 ともあれ、こんな立派な前方後円陵に埋葬されている崇神天皇が、『日本書紀』の編年による紀元前の人でないことだけは確かでしょう。そうでないと、宮内庁ダブルスタンダードになってしまいます。

  苔ふりて松風やさし濠の辺に憩ひて崇神の陵を眺むる 


 次に長岳寺(ちょうがくじ)に着きました。

 長岳寺は天理市柳本町にある高野山真言宗の古刹です。
 天長元年(824)淳和天皇の勅願により弘法大師が創建したと伝えられていて、本堂の本尊は、重文の阿弥陀三尊像です。

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 ここは「大和」の国名発祥の旧地といわれます。近隣に大和神社(おおやまとじんじゃ)が鎮座するからでしょうか。長岳寺は大和神社神宮寺だったそうです。寺地そのものが、かつては大和神社だったという話もあるぐらいです。

 大和神社倭大国魂大神主祭神とする神社です。倭大国魂大神については諸説ありますが、実像は不明です。また、倭国が奉仕していたと言われます。

 崇神天皇がその神を宮中に祀っていたのですが、強い威力を恐れて外部に祀らせたと『日本書紀』に書かれています。その理由は、もし崇神天皇が自身の鏡等を所持していたとしても、その天皇伝来の鏡等とは比較にならないほど大きな銅鏡(または八尺瓊)だったからに違いありません。天照大神の鏡も然りです。威力(大きさ)が天皇の鏡とはまるで違っていたのです。

 しかし、実際には鏡の霊力を恐れたからだけではなく、崇神天皇のほうでも、政権独立のために三輪山の祭祀を極力、宮中から分離したかったのではないかと想像しています。
 その結果、一方で三輪山の神の祟りを恐れながら、それぞれの神にふさわしい祭主に鏡を委任したのではないでしょうか。

 天照大神の鏡も、それが天皇伝来のものなら、三種の神器のひとつはまさに天皇の証ですから、絶対に宮中から手放してはいけないはずなのです。それでも外へ出したのは、天皇の鏡ではなかったということではないでしょうか。個人的には、どちらも三輪山に祀られていた鏡だった可能性があります。なので、伊勢神宮にあるのは三輪山の鏡のひとつかもしれません。

  天理への曲がりの道の別け道に明るく咲くや向日葵の花

  藁小屋に雨さけ寄れば永久寺池の水面に鯉の跳ね見ゆ

 
内山永久寺鳥羽天皇の建立で、廃寺ですが、その池には後醍醐天皇に関する不気味な伝説があります。
 
 山辺の道歩きを終えるころには、石上神宮にも立ち寄った気がするのですが、それも今は定かではありません、布留のあたりの旅人の行動は、もう記憶があやふやになっています。それでも全部で8時間ぐらい歩いて、やっと天理の市街に到着しました。

 天理の町に入ると黒づくめの人が大勢いてびっくりしましたが、天理教の本部があったので、「ああ、そうだ。奉仕に来ている天理教の信者さんだね」と分かったことを覚えています。もう、その頃には濡れたシャツも乾いていて、くたくたになって電車に乗ったのでした。





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