鄙乃里

地域から見た日本古代史

清正公の銀杏が残る 熊本城

 足利時代末葉に熊本で菊池一族の出田秀信(いでたひでのぶ)が千葉城を、そして大永・享禄頃には鹿子木親員(かのこぎちかかず)が茶臼山の南西端に隈本城を構えていました。


 その後、天正16年(1588)になって秀吉の家臣加藤清正が肥後半国25万石の領主として入城。さらに関ヶ原後に52万石の大名になったことから、慶長6年(1601)から茶臼山全体に大規模な築城を開始。隈本城を熊本城に改めたといわれます。

 

f:id:verdawings:20210413002932j:plain

 
 清正の熊本城は慶長12年(1607)に完成したのですが、寛永9年(1632)清正の子・忠広の時代に加藤氏が改易になりました。理由はいろいろといわれますが、結局は清正が豊臣恩顧の忠臣だったからではないでしょうか。

 

f:id:verdawings:20210406223804j:plain

本妙寺

中尾山中腹にある法華宗名刹

加藤清正公を祀る浄池廟(じょうちびょう)や銅像があります。

 
 
 加藤氏改易のあとは小倉藩から細川忠興の子、細川忠利が転封し、それ以後は
細川藩明治維新まで12代続いています。

f:id:verdawings:20210406224356j:plain

細川氏が築いた 水前寺成趣園(じょうじゅえん)

庭園は東海道53次を模して造られているとのことで、中央左が富士山らしいです


 明治時代、熊本城は西南戦争で政府軍の拠点になりました。その頃は大・小二つの天守閣と、ほかに櫓・城門など多数存在したそうですが、残念ながら明治10年(1877)の「西南の役」の年に多くが火災で焼失したとのことです。

 そのため、現在の大・小両天守閣は小倉城(昭和34年)と同じく、昭和35年(1960)に外観コンクリート造りにより再建されたものです。
 その後の平成18年(2006)に日本100名城に選定され、翌年からは、その築城400年に当たって櫓・城門・塀などの復元工事が最近まで継続されてきました。

 しかし、その堅固な熊本城も、平成28年(2016)の熊本地震により、再び石垣や櫓が大きく崩れ、天守の瓦が吹っ飛ぶなどの大被害に直面します。それでも郷土の宝である熊本城を何とか復旧させたいとの市民の強い願望と熱意に支えられて、修復作業が大々的に進行しているところです。
 一部では
その願いがすでに実って、先日、この令和3年4月上旬に5年ぶりで天守閣の修理が完了し、美しい姿を取り戻しています。しかし、ほかの工事はまだまだこれからでしょう。

 

f:id:verdawings:20210406223707j:plain

熊本城周辺地図

 熊本城の所在地は中央区本丸というところで別名、銀杏城(ぎんなんじょう)とも呼ばれるそうです。敷地内に加藤清正お手植えの銀杏樹があり、元の上部は天守と共に焼けてしまったのですが、その脇芽が成長して現在の2代目の銀杏樹になっているとのことです。 城は重要文化財で、城跡は特別史跡に指定されています。


 小泉八雲夏目漱石種田山頭火といった文人たちも一時期、熊本に赴任・滞在していたようですが、あいにくと、その頃は天守閣がない期間に当たっていたので見られなかったと思います。

 熊本城は熊本市民にとって郷土の誇りですから、今後も復旧工事が順調に運ぶことを願いたいものです。熊本城も先に紹介した広島城とたしかに感じがよく似ていますね。

 現在の熊本城の基礎造りは加藤清正によるものですが、広島城毛利輝元による築城です。輝元が秀吉の城を参考にして造ったそうですが、次の福島正則は災害で破損した石垣や櫓を無断で増改修したことから、幕府にとがめられて改易になりました。徳川3代将軍家光頃までは幕藩体制構築のため法度違反には容赦がなく、何かと口実を作っては親藩大名などと入れ替えていたことが窺え、寛永年間頃に加藤家も潰されてしまいました。


 しかし地元では熊本の礎を築いた最初の藩主として清正公の人気は高く、依然として、現在も健在のように思われます。

 


f:id:verdawings:20210408162437j:plain