豊臣時代に毛利氏は中国地方の8ヶ国120万石を領有していましたが、関ヶ原の戦いで防長2国36万9000石に減封されて、本拠の広島城を失いました。そのため萩に新しい居城を造ることになったのです。築城地の萩は、いくつかの候補地を打診した中で徳川家の指導により決定されたものでした。
城は慶長9年(1604)に着工され、4年の歳月をかけて指月山(しづきやま)とその南麓に完成します。指月山山頂を詰丸とし、その山麓に本丸、二の丸、三の丸を設けて三段構えとし、本丸には5重5階の天守閣と藩主の殿舎や役所があったと言われています。そのため指月城とも呼ばれます。
しかし、明治になって廃城令が出されると、翌年の明治7年(1874)には早々と解体されてしまいました。現在は壕と城壁の一部・石垣などが残っているだけです。維新を先導した立場から模範となるべく率先して廃城に踏み切ったのでしょうか?
現在の写真では生徒がいる場所ぐらいまで壕の水が入っているように見えます
ただし、長州藩はすでに文久3年(1863)に藩庁を山口に移していたので、萩城は幕末には事実上の廃城状態になっていたそうです。
それでも萩城が260年間にわたり長州藩の根拠地であったことに変わりはありません。その本丸の一部は現在、指月公園として一般に開放されています。
毛利輝元は領地を防長2国に削減されたとき、その所領の一部を子息や一族の者に割譲して、自国領内に2藩と1領の支藩を作っています。
岩国領3万7000石 吉川広家
長府藩4万7000石 毛利秀元 うち1万石は清末藩 毛利元知。
徳山藩2万石 毛利就隆(なりたか)
清末藩(きよすえはん)はのちに長府藩(ちょうふはん)から分知されたものです。
石高には公称と実髙があり、また年代によって増減があります。上記の資料は当初の公称石高36万9000石からの分与高と思われます。
萩藩はそれらの宗家なので、一般に長州藩といえば、もちろん萩藩のことになります。その頃、毛利輝元はすでに隠居していたようで、萩藩(長州藩)の初代藩主はその子の毛利秀就(もうりひでなり)がなりました。
長州藩の毛利氏は初代から13代が世襲し、幕末の藩主は毛利敬親(もうりたかちか)でした。
萩城の天守閣は写真に残っていますが、5重5階で,高さ21メートルといわれているので、伊予松山城ぐらいの高さでしょうか。城跡は全体を合わせるとかなり広大なものです。
安政5年(1858)に造られた金属溶解炉で、玄武岩と煉瓦を使用しています。基底部は長方形ですが、上部が2本の煙突に分かれています。当時のことですから、大砲の試作などが目的だったようです。全長10.8メートル。
萩を歩くと古い土塀の武家屋敷が目立ちます。その内側の庭には夏みかんの木がたくさん植えられています。夏みかんは明治9年(1876)当時、荻に多数いた失業士族の生活救済のために栽培されたものが現在も実をつけていて、萩の名産となり、観光のためにも大いに役立っています。実が色づく季節に歩くと、やはり風情がありますね。
ほかにも、長州藩に関わるものとして藩校・明倫館、吉田松陰の松下村塾、女台場などあり、名産品としては上記の夏みかんとその加工品、萩焼も有名です。