鄙乃里

地域から見た日本古代史

蘇民将来と荒ぶる天神 ③ ~素戔嗚尊~

 「蘇民将来説話」は素戔嗚尊(すさのおのみこと)の物語だともいわれる。素戔嗚尊牛頭天王・武塔天神と習合されているからである


 素盞嗚神社の由緒

 広島県福山市素盞嗚神社天武天皇時代(679年)の創建とされ、神社の説明では、吉備真備が当地から分霊を播磨の広峯神社に勧請し、そこから平安京祇園観慶寺感神院(八坂神社)に勧請したと説明されている。

 この素盞嗚神社は『備後国風土記逸文にある疫隈國社にあたり、蘇民将来「茅の輪」伝承の発祥地だという。その由緒によると、素戔嗚尊の嫁取りの旅は出雲から南海へと向かう出来事であったらしい。当社はその途中にあった巨旦将来の屋敷跡だとしている。

 その通りだとすると、「蘇民将来説話」は完全に国内の話になっている。


 その由緒の真否はさておき、素戔嗚尊牛頭天王や武塔天神と同一神と考えられていたことは事実である。もちろん、研究者の間では仏教の垂迹説で習合したとの異論が多い。にもかわらず、広く同一神とされているのはなぜであろうか? そこで自分なりに考えてみた。


 日本書紀』一書の記述

  素戔嗚尊新羅
  『日本書紀』によると、素戔嗚尊は母の根の国に行きたいと哭きいさちり、伊弉諾尊に叱責されたり、その後も傍若無人に暴れたため、ついには天照大御神が岩屋に籠もる事態に発展し、神々により高天原を追放された。しかし、そのまま出雲には行かないで、なぜか、新羅に行ったとの記述がある。

 一書(第4)にいう。
 …このとき素戔嗚尊は、その子五十猛神をひきいて、新羅の国に降られて曽尸茂梨のところにおいでになった。 そこで不服の言葉をいわれて「この地には私は居たくないのだ」と。ついで土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲国の簸の川の上流にある、鳥上の山についた。

                    講談社学術文庫 宇治谷孟訳) 

 原文はこうなっている。

…是時、素戔嗚尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰「此地、吾不欲居。」遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲國簸川上所在、鳥上之峯。

 これだけでは、何の目的で新羅に行ったのか分からないが、「降到於新羅國、居曾尸茂梨之處」は、一般には「新羅の曽尸茂梨(そしもり)に行った」というふうに解釈されている。


 しかし、どちらの文章を見ても、実際はまず「降って新羅に到り」、ついで「曽尸茂梨のところにいた」となっている。
  「降る」は高天原からということになるだろうが、その場所を神話のとおり「天上」だとすれば、なぜ出雲に降りないで、新羅に降りたのか、それが甚だ疑問になってくる。その上、そこからわざわざ泥船を造って、また出雲へ向かっているのである。

 また高天原が天上ではなく、日本にあり、日本から新羅に渡ったのであれば、その目的の如何に関わらず舟を所有していたことであり、帰りに粘土の舟を造る必要などないであろう。

 したがって、もっとも適切と考えられることは、この場合の高天原は半島に存在した国(邑)だったのではないかということである。

 その国(邑)を追放されて素戔嗚尊が最初に向かったのが新羅であり、曽尸茂梨のところとするべきではないだろうか。この場合の「降る」とは高天原を離れると同時に、海岸地方に向かうことを意味するのではないかと思う。この記事の新羅を「斯盧(しろ)」と仮定した場合、内陸部や北部ではないし、そこから舟で出雲へ渡ろうとしたのである。

 そのとき素戔嗚尊は「曽尸茂梨」のところで不服を言っている。この不服とは「捨て台詞」のことだろう。それから、粘土の舟を造って東へ渡って行ったのである。いかにも、素戔嗚尊らしいやり方ではないだろうか。

 ここで新羅を「斯盧」に仮定したのは、日本書紀』時代の新羅はすでに半島全体を統一していたし、素戔嗚尊の時代は中国前漢衛氏朝鮮以前の時代と推定され、新羅の始まりの斯盧国でさえ存在したのかしないかも分からない昔である。それだと新羅の場所がまったく不明だから、ここでは『魏書』や神功皇后時代の「斯盧国」と想定してみたわけで、それは日本との関係からみて、そんなに北部ではないだろう思うのと、東へ海を渡って出雲に到ると書かれている理由が大きい。

  五十猛の植林
 そのときに同行した子の五十猛命(いそたけるのみこと)は、高天原を出るときにたくさんの樹の種子を持って来たが、それを韓地には植えないで、日本へ持ち帰った。そして、二人の妹と共に筑紫から始めて大八洲の各所に植え増やして青山にしたとある。

 「持ち帰り」というと、高天原は日本で、日本から半島へ一旦運んだようにも聞こえるが、実際は「もち来たった」の意味ではないかと推察する。絶対とはいえないが、高天原が日本だとしたら、少なくとも、その地域には植える必要がないだろうし、木造の舟も造れないわけではない。したがって、半島内の高天原から新羅に持ち来たったが、韓地には植えないで、そのまま日本に運んだように考えられる。

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 曽尸茂梨とは?

  曽尸茂梨と牛頭山
 ところで、ここにいう「曽尸茂梨」とは何だろうか? この「曽尸茂梨」の意味は「午頭」であるともいわれている。韓国語で「曽尸」は牛を、「茂梨」は頭を表すそうだ。したがって「曽尸茂梨」に行った素戔嗚尊が「牛頭天王」と称されるようになったとの説も一応、首肯できるわけである。

 では、その場所はどう考えたらいいだろうか。「曽尸茂梨」が牛頭の意味であれば、例えば、その「曽尸茂梨」の地にある代表的な山を、午頭山(ごずさん)と呼ぶことはありうるかもしれない。

 ならば牛頭山を頼りに「曽尸茂梨」の場所を発見することは出来ないか。というのが、素戔嗚尊の足跡探しになる。

      外務省世界区分地図に位置印を加工

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 とはいっても、牛頭山に該当する山は韓国にいくつも存在していて、「曽尸茂梨」の地を探すことは簡単なことではない。

 ・江原道春川(チュンション)にある牛頭山(134m)。
 ・京畿道 驪州市の牛頭山(489m)。                                   
 ・慶尚南道居昌郡の義湘峰(ウィサンポン1046m)。
 ・慶尚北道高霊郡の伽耶山(主峰は牛頭山と呼ばれ1430m)。

 そのほか、現在の北朝鮮内や済州島などにも存在するという。

 その中で、もっとも通説らしく言われているのは、江原道春川(チュンション)で、その地から素戔嗚尊の御霊を遷したという神社も日本に存在する。ただし、それは現在の由緒に従っているだけのことで、それ以上の根拠があるのかどうかは不明である


 京都東山の八坂神社(祇園社)の創始については、先の素盞嗚神社の由緒以外にも二通りがあるようで、HPにも紹介されている。①は、もしかしたら素盞嗚神社の由緒と同じものかもしれないが。

 ① 貞観18年(876)南都の僧・円如(えんにょ)が当地にお堂を建立し、同じ年に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に降り立ったことにはじまる。

 ② 斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山(ごずさん)に座した素戔嗚尊(すさのをのみこと)を当地(山城国愛宕郡八坂郷(やましろのくにおたぎぐんやさかごう)に奉斎したことにはじまる。

  江原道春川(チュンション)説が有力視されているのは、この2番目の理由によるものである。

 しかし、伊利之による奉斎が八坂神社の起源だとしても、そのことが伊利之が居た春川を「曽尸茂梨」とする理由にはならないのではあるまいか。牛頭山はほかにも存在するし、素戔嗚尊の「曽尸茂梨」と八坂神社の創始の間には直接的な関連性はないと思われる。春川の牛頭山に素戔嗚尊が実際に祀られていたとしても、後世の祭祀でないともいえないだろう。

  『日本書紀』には「土で舟を造り、それに乗って東の方に渡り、出雲に行った」と書かれている。しかし、春川からみた出雲の方角は南東であり、舟で半島の海岸沿いを航行すると、さらに南向きになってしまうので、なおさら方角が異なってくる。牛頭山もわずか134mの低山である。


  ほかに慶尚北道と南道にまたがる高霊郡
伽耶山(かやさん)は1000m級の山塊で、てっぺんが角をもった牛の頭にそっくりだ。この地も加羅国のほかに、昔は大加羅と呼ばれていたことがある。『魏書』に記された弁辰(べんしん)のうちにあり、韓国内でも地理的・政治的に日本とは近い国だった。韓国の学者には、この地を高天原だと言う人もいる。

 もちろん、高霊郡(こうれいぐん)は「斯盧」とは違うし「曽尸茂梨」ともおそらく無関係だろうが、素戔嗚尊が最初に行った高天原の地を半島内に想定するなら、春川のような北部よりは、南部にある地域のほうがずっと適切だろう。ここから釜山のあたりに出ると、出雲は正に東になる。

 ほかにも、素戔嗚尊は自分が出てきた半島の国を韓郷(からくに)」と呼んでおり、その前の高天原では、天照大御神の良田に馬を放って荒らしているが、『魏志倭人伝』に「(倭地には)牛、馬、虎、豹、羊、かささぎはいない」と書かれていることなども、「高天原」の最初の地を日本国内に比定するには、マイナス材料になるのではないかと思う。

 

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「曽尸茂梨」の、その他の意味
 しかし「曽尸茂梨」は、「ソシモリ」という原語に『日本書紀』が漢字を当てはめているだけで(漢字にも多少の意味を持たせる場合もあるけれど)、この漢字でなければいけないということはないはずだ。「牛頭」のほかにも、「高い柱のてっぺん」とか、「尸」は格助詞の「の」に当たると述べている人もいる。「の」だとすれば、「ソのモリ」になる。また「曽尸茂梨」を「蘇尸茂梨」と表記している例も、少しだが見かける。それなら「曽尸茂梨」は「蘇のモリ」と考えてもいいだろう。すると、この場合の「蘇」とは何だろうか?

  『三国志』魏書三十 烏丸鮮卑東夷伝の「韓」の条に以下の記事がある。

 又諸国別邑有りて、之を名付けて蘇塗と為す。大木を立て、鈴鼓を県(か)け、鬼神に事う。諸の亡、逃げて其の中に至れば皆是を還さず、好んで賊を作す。その蘇塗を立つるの義は、浮屠に似たることあるも、行う所の善悪異なること有り。

                     講談社学術文庫倭国伝』)

 この蘇塗(そと)と「曽(蘇)」は、文字だけでなく、素戔嗚尊が置かれている立場や状況と、なんとなく話が似通っている。

 蘇塗は「国の中の別邑」称しているが、また、その中に立てる大木をも意味しているようである。 浮屠(仏塔)に似ていると書かれているので、これは仏教のストゥーパのことで、現代の卒塔婆(塔婆)などの語にも使われている。それに類似したものが蘇塗であろう。

 ただ蘇塗は仏教のように舎利を納め、供養したりするためものではなく、鬼神を祭り、迎えるための目的で立てられたところが異なっている。ここでいう鬼神とは、彼らの農作業に関わる自然神や、不可解で特殊な信仰形態のことらしい。仏教文化の影響をいくらかは受けているが、これらは基本的に倭族の習俗であり、その上に天神思想がひとつになったもののように見える。

 蘇塗には、ほかにも三角形の石塚(磐座)のようなものや、真っ直ぐに立った棒の先に木製の鳥を取り付けたもの(ソッテ)もあるようだ。それらは、日本の神社の様式とよく似ている。

 石塚は神社の神殿になる。高い大木は神の依り代で、そこに掛けられた鈴鼓は拝殿の鈴にあたる。鈴鼓を鳴らすことによって、神様が下界に降臨するのである。また、「ソッテ」は鳥居になり、それら全体を取り巻く別邑は、神社の杜ということになるだろう。また農期の前後に行う踊りは農村の神楽であり、天君は神主のことではないだろうか。

 そうすると、「ソシモリ」の「モリ」は、「杜」と意味が重なる言葉で、「ソのモリ」とは「蘇の邑」であり、つまり別邑としての「蘇塗」という意味になるのかもしれない。

 また、それと同じ意味から、その聖域を守護する役職としての「守」が考えられるかもしれない。『魏志倭人伝』には対馬国壱岐国・奴国・不彌国の副官に「卑奴母離」があり、「母離」を「守」の意味に解して、その国を守備する責任者のようにも解釈されている。
  「ソのモリ」の「モリ」が「卑奴母離」の「モリ」と同じ意味だとしたら、その場合は場所というよりも人であり、その邑の長(おさ)とか、責任者ということになるのではないか。

 蘇塗はそこに入ると、外部の法や支配が及ばない聖域であり、犯罪者でも外には引き渡さない空間とある。素戔嗚尊も、高天原ではさんざんに掟を犯した罪人だった。そのためとりあえずは、こうした別邑に暫時留まってから、出雲へ渡ったのではないかとも考えられよう。「曽」が「蘇塗」の「蘇」を意味するのであればということである。

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 「曽尸茂梨」は場所ではなくて人か?
 そう考えていくと、「曽尸茂梨」が、最初の「牛頭」のように場所を示す言葉かどうかは疑問になる。
 たとえば、「曽尸茂梨(蘇塗)」という聖域を示す言葉と、「牛頭」とが同じ意味を持つことから、聖なる山を牛頭山と称している場合も考えられなくはないと思う。

 この場合のキー ワードは「曽尸茂梨」に続く「之處」の解釈にある。場所を示すのに「之處」というのは、いかにも不自然であり、文章としても意味をなしていない。

 しかも素戔嗚尊は、そこで誰かに不服を言って出ていっている。したがって「曽尸茂梨」は、その相手と考えたほうが文脈に合っているのではないだろうか。「ソのモリ」を「ソの守」と解釈し、その相手の役職名(官名)を「曽尸茂梨」と考えたほうが事実に即しているのではないだろうか。その蘇塗の邑長に対して、「自分はもう、この地(半島)には居りたくないんだ」と告げて、出雲へ渡っていったのではないかと思うのである。

 もちろん素戔嗚尊と『三国志』の時代とでは年代が相当違うし、「蘇塗」に関する記述は辰韓ではなくて馬韓の条に書かれている。また「曽尸茂梨之處」が、そのまま新羅かどうかも明確とはいえない。それでも、みな同じ辰国であるし、弁辰は馬韓に服属しており、辰韓と弁辰の境界も雑居と書かれている。「曽尸茂梨」の意味が「蘇塗の邑長」の意味で、そこに蓑を着て行きはぐれた素戔嗚尊らが、一時的に滞在させてもらったと考えると、面白いような気がするのである。そうすると「蘇民将来説話」とも内容が重なってくるのではないだろうか? 蘇民とは「蘇塗の民」あるいは邑長になり、その一宿一飯の恩義から、茅の輪を着けて蘇民将来の子孫と言えば、素戔嗚尊が疫病から護ってくれる説話へとつながっていったのではないだろうか?

 素戔嗚尊の牛頭を、必ずしも牛頭山に求めなくても、ツヌガアラシトが大加羅の王子であったように、貴人は牛頭のかぶり物をしているものと考えられていたのだろうか。

   

      

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