三輪山をしかも隠すか春霞 人に知られぬ花や咲くらむ
~『古今和歌集』 紀貫之 ~
三輪山の大物主神の実像も謎に満ちている。今回はそれを少し考えてみることにした。
奈良県大神神社の由緒によると、三輪山の祭神は三神いるという。主神の大物主大神に、少彦名命と大国主命が配祀されている。
一方で、『出雲国造神賀詞』には「己命の和魂を八咫鏡に取り託けて、倭大物主櫛𤭖玉命と名を称えて、大御和の神奈備に坐せ」としてあり、即ち、大国主命の和魂がそのまま倭大物主櫛甕玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)ということになっている。したがって、ここでは主祭神の大物主大神も大国主命と解していいはずだ。
ところが、大神神社では必ずしもそうはなっていない。大国主命と大物主大神は別神にされていて、特異な祭祀のあり様といえる。
◎ 幸魂、奇魂
まず『古事記』によると、大国主命の前に海を照らして依り来る神があり「吾を倭の青垣の東の山の上にいつき奉れ」と告げたという。『日本書紀』でいう「幸魂、奇魂」であるが、これは常世へ去った少彦名命の神霊で間違いないと思う。そのため、一柱として少彦名命を祀っているのは理解できる。
また先の『出雲国造神賀詞』により、大国主命の和魂(にきたま)、つまり大国主命(大己貴命)を祀っているのも了解される。
したがって、上記の内容を大神神社の由緒と併せてみると、三輪山の神は一柱は少彦名命であり、また一柱は大国主命(大己貴命)であるが、さらに、それでも、もう一柱の大物主神が存在することになる。しかし、この大物主神がだれか明確でないから、大神神社でも大物主大神のままで奉斎しているのではないだろうか?
では、その大物主神とはだれのことなのか?
◎ 事代主命
他の候補として、『日本書紀』に神武天皇の后・姫蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)は大物主の女(むすめ)、あるいは事代主の娘とあるから、大物主は事代主命ではないかとする説もある。
しかし、神代記下一書(第二)には、
経津主神は、岐神を先導として、方々を巡り歩き平定した。従わない者があると斬り殺した。帰順する者には褒美を与えた。このときに帰順した首長は、大物主神と事代主神である。
と、このように両者は別神として記されている。
また両神が高天原に上がったときにも、高皇産霊尊が大物主に向かって「国つ神の娘を妻にするな。わが三穂津姫を妻につかわす」といった内容の記事もある。三穂津姫は大国主命の妻とされているので、それをみると、大物主は大国主命以外の何者でもないと思われる。他にも大物主を大国主命としている記述が数個所ある。
『出雲国造神賀詞』においても「事代主命の御魂を宇奈提に坐せ」とあり、事代主命が鎮められているのは三輪山ではなく、宇奈提(うなせ。河俣神社といわれる)である。
そうすると事代主命説も、そのままでは怪しいような気がしてくる。神武天皇の后がたとえ事代主命の女(むすめ)だったとしても、大物主神の女ではないということである。
◎ 天照大神
大物主には、天照大神説もある。豊鋤入姫が最初に大神を祀った笠縫邑は現在の桧原神社(ひばらじんじゃ)の地が有力とされるが、この神社は大神神社と同じ三ツ鳥居で、天照大神を祀ると同時に、三輪山の上社(上の磐座)を祀っているらしい。
鎌倉時代の神道書だが『倭姫命世紀』にも、豊鋤入姫は一時期、三輪山の上宮に天照大神を移動させたと記されている。
五十八年[辛巳]、倭弥和乃御室嶺上宮(美和之御諸宮)に遷り、二年間奉斎。この時、豊鋤入姫命は、「吾、日足りぬ」といひ、姪の倭比売命に事を預け、御杖代と定めた。
もともと無縁なところに祀るはずもないだろう。
『出雲国造神賀詞』の一 節も、厳密にいえば「己命の和魂を八咫鏡に取り託けて」の八咫鏡は、実は大国主命の鏡ではなく、天照大神の鏡を指していると受け取れなくもないようである。そして、この場合の「天照」は神武天皇よりも先に大和の地に移動していた天火明命(『先代旧事本紀』のニギハヤヒ)だとする説もある。
その他にも、大三輪神社には己の神杉というものがあり, 蛇信仰があるので、倭族や古い縄文の神と習合している場合もあり得ないわけではない。
このように、記紀にも登場する著名な神でありながら、その正体がきわめてぼやけていて、疑問を抱かせるものの一つが、この倭大物主神なのである。
◎ 本命はやはり大国主命か?
大神神社で説明されている祭神
少彦名神 (配祀)
大己貴神 (配祀)
大物主大神(主祭神)
ひなもりが考えるところ
大国主命の「幸魂、奇魂」………少彦名命の神霊
大国主命……………………………………大己貴神
大国主の「和魂」+八咫鏡………倭大物主櫛甕玉命
細かくいえば、他の要素と融合しているケースもあるかもしれないが、どれも大国主命が主体になっているので、大三輪の神は、まず大国主命を指していると言っても過言ではないと思う。ただ、他の要素をどう考えるかの問題はある。
◎ 神社の由緒を再考してみると
先の大神神社の由緒によると『古事記』の「海を照らして依り来る神」を大物主と説明しているが、『古事記』には大物主とはどこにも書かれていない。『日本書紀』にも後半部に「大三輪の神」とは書かれているが、やはり大物主とはなっていない。その記事にしても、『日本書紀』が結果を先に記述しているだけのように思える。
つまり、大神神社が大物主大神を祀るから、その記紀の神も当然ながら大物主という名の神であり、記紀にもそう書かれていると…由緒では述べているのであるが、大物主大神の説明になっていない。
是に大国主神愁へて告りたまはく。「吾、独して何か能く此の国を得作らむ。執れの神か吾と能く此の国を相作らむ」とのりたまいき。是の時、海を光らして依り来る神有り。
(小学館 日本古典文学全集『古事記』より)
この場面は出雲の海岸なので、海面を照らす夕陽の輝きが徐々に海岸に近寄ってきている光景であり、(それをどう考えるかは人によってまちまちだが)その輝きの中に、大国主命は少彦名命の声と霊魂を感じ取ったのであろうと思う。記紀ともに、その話が少彦名命の項に挿入されている事実から察しても、それが了解される。
少彦名命が最初に舟でやって来たときにも「帰(よ)り来る神あり」と同じ表現が使用されているが、のちには常世に去って神霊になったから「依り来る」に変わっただけではないのか? そのため大神神社の一柱に少彦名命が祀られているのであろう。
ただ、少彦名命の神霊といっても、それは大国主命が感受した「幸魂、奇魂」であり、結局は大国主自身の魂のことでもある。それが「倭の青垣の東の山の上」即ち御諸山に祀られたのである。
次の、大国主命が大己貴命であることは、いろいろな個所に明記されている。
そして『出雲国造神賀詞』には前述のごとく、大国主命の和魂が倭大物主櫛𤭖玉命だとしてある。ただし、ここにだけ「八咫鏡に取り付けて」が追加されている。
したがって三輪山の神は、ディテールにはいろいろな違いがあるが、まず大国主命と考えて間違いはなさそうで、『日本書紀』の各所でも、そう記述されている。
◎ 神名が異なる理由は?
では、なぜ「大国主命」と「大物主神」で神名が違うのだろうか?
それについては、大国主命が出雲大社に籠もってから、それ以後に大和に祀られた和魂を「大物主神」と呼んでいると言われる人もおられる。なるほど、そうかもしれない。皇孫に国譲りをしたので、「大国主」から「大物主(大霊主)」に名が変わったのだろうか?
大三輪神社の神は、少彦名命・大物主大神・大己貴命が、三ツ鳥で堅く一体に結ばれているような感じである。
ただ、その他の要素をどう考えるかの問題はまだ残されていると思うので、今の時点で、自分に解るのは…この程度のことである。