鄙乃里

地域から見た日本古代史

伊豆三嶋大社祭神の神話と史実を探る

 三島大社祭神の疑問

 三嶋大社静岡県三島市大宮町に鎮座し、祭神は大山祇命事代主神の二柱である。    
 それ以前の三嶋大明神伊豆半島の白浜に祀られていた。後后といわれる伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)神社と同所に祀られていたが、その地は下田で、昔の伊豆国賀茂郡である。しかし、近くの三島市国府が存在したためだろう、三嶋大明神一座だけが何らかの理由で府中に遷座されたものと思われる。それが現在の三嶋大社である。

 延喜式神名帳式内社賀茂郡に「三嶋神社」が記載されているのは、白浜に伊古奈比咩神社と並んでいた三嶋神社のことをいう。現在の三島市付近は田方郡で、そこに三嶋神社が記されていないのは、延喜式神名帳の時代(905年~927年)の田方郡にはまだ三嶋大社が存在しなかったことを表している。伝説にいう「藁一束の社地」云々の話は、白浜から(広瀬神社経由といわれているが)三島市へ移動した際の伝説であり、それなりに強制された移動の可能性があろう。

 その三嶋大明神を、白浜の伊古奈比咩神社では現在、相殿の事代主神としている。ただし、それは江戸時代後期の平田説以降に神名が変更されたもので、それ以前は大山祇神と考えられていたのは、三嶋大社の場合と同じことである。

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 三嶋大明神三宅島から白浜に移動したらしいことは、地元の伝承や、『三宅記』にも触れられているが、『三宅記』以後は歴史であっても、それ以前の三嶋大明神の話は神道の習合説による荒唐無稽な民話でしかなく、牛頭天王素戔嗚尊や徐福伝説の焼き直しのようなものではないか。いつ、どのような理由で移動したかについては、具体的な説明がほとんどなされていない

 静岡県神社庁の由緒では、それを2400年前としてあったが、孝安天皇伝承をそのまま踏襲したに過ぎないのではあるまいか。その年代なら徐福伝説よりも古く、春秋時代、呉民流入の時代に近い。当然ながら、事代主命もいるはずがない。

 そこのところを伝説でもいいから、真実味のある説明ができなければ、事代主神だといってもどうしようもない。
 なぜ祭神が事代主神なのか、事代主神だとしたら、その初見の史料は何時代のものなのか? 平田説室町時代の史料に依拠するとされる)以外に伝承でもいいから、はっきりした記録がほしいところである。

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 大山祇神社関係の古記

 伊予の大三島大山祇神社)大祝󠄂家の『三嶋宮御鎮座本縁』は江戸時代の宝暦年間に編纂された史料だが、古来の記録から採録されている部分も多い。

 そしてそこには、光仁天皇宝亀10年(779)に「諸山積(*伊豆三島大明神)の神徳を伊豆国加茂郡に鎮め坐す」と記されていて、これが三嶋大明神伊豆国に戻されたという年代になっている。『予陽河野家譜』にも「光仁天皇の時代に伊豆国加茂郡に戻された」と、同様の記事があったように記憶する。

 伊豆から、いつ伊予の地に到来したのかについても、それらしい伝承はある。
  『続日本紀』の文武天皇3年(699)5月24日条には、役小角を伊豆嶋に配流したとの記事がある。
 河野氏『予章記によると、そのとき小千直(おちのあたい)の子である小千玉興(おちたまおき)は朝廷(藤原宮)に仕えていて、小角に過誤がないことを申し上げたところ、自らも同罪にされてしまったいう。共に島流しになったのか、勘気だけで済んだのかは分からない。

 また河野氏の秘書『水里玄義』には、役小角が2年後に無罪放免されたときに「三嶋大明神役小角伊豆より御上洛」の記事が認められ、三嶋大明神が伊豆から渡ってきたように書かれている記述がある。

 このあたりの信憑性についてはなんともいえないが、そのあと霊亀に小千玉興が因縁(伝承で小千氏の祖・小千御子と三嶋大明神が兄弟であることを指すのか)により「明神を船に移し給ふ」という一文が記されていて、共に大三島に帰った。

 そのころ小市郡(現:今治市)三島に垂迹(すいじゃく)があり「額に諸山積大明神(本地は薬師如来)、第一皇子、伊豆三嶋の御事」と書いている。因みに、伊予の大山祇大明神の本地(ほんじ)は「大通智勝仏」である。

 もし、この家伝書に書かれたとおりなら、伊豆三嶋大明神は、このときに伊予の三島に遷座されていたことになる。役小角流刑地は大島という話もあるが、同じ伊豆なので、越智玉興から話を聞いていた役小角が(三宅島か白浜かは分からないが)上洛時に伊豆から連れ帰ってきたものだろうか? それが三嶋大明神の分霊でなければ、御神体そのものを運んできたのかもしれないから、その間、伊豆に三嶋大明神が不在だったことも考えられなくはない。

 そして、光仁天皇宝亀10年(779)に「諸山積の神徳伊豆国加茂郡に鎮め坐す」と『三嶋宮御鎮座本縁』にあり、『三嶋宮社記』にも同年に「大山積大神伊豆国加茂郡に勧請」と一応の明確な年代が記されてあり、伊豆国賀茂郡に祀られたとしている。

 この賀茂郡は三宅島ではなくて、伊豆半島の伊古奈比咩神社の場所である。したがって、これらの史料を信じるなら、伊豆三嶋大明神は、このときに伊予の大三島から伊豆の白浜に戻されてきたものと考えていいだろう。

 その三嶋大明神は、大祝家の『三嶋宮御鎮座本縁』や、『予章記』をはじめとする河野氏の家伝書では「諸山積大明神」と呼ばれている。「諸山積(もろやまづみ)」の名称については、大山積命には五つの名があると記載されている個所もあるが、『日本書紀』記載の自然神名そのまま従ったようでどうもあやしい気がする。必ずしも定かではないが、その神名の真の意味は伊豆諸島のことで、それらの守護神を指すのではないかと推測する。

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 平田篤胤説以前にも、事代主神が伊豆地方で信奉されていたとしても、流罪になった役小角葛城神社事代主神に奉仕していたことを考えると、小角の流罪以後に祭神が入れ替わった可能性も皆無とはいえない。役行者の影響はそれぐらいインパクトがある。

 当時は伊豆の白浜も伊予の小市郡も共に賀茂領であったし、摂津の三島鴨神社(祭神は大山祇神事代主神)との関連などもある。そのためと思われるが、伊予の三島にも摂社に葛城神社(事代主神)が祀られている。ただし、大山祇神社境内の葛城神社は、諸山積大明神とはまったく別の社である。

 諸山積大明神が伊豆に帰還した後も、大山祇神社では永万元年(1165)島内に新たに諸山積神社を造営し、逆に伊豆国から諸山積大明神を勧請している。そして、これを浦戸の御前(ごぜ)と称していたが、今は境内の十七神社で祀られている。


 一方で伊豆の側からみれば、三嶋大明神が伊予の大三島から遷座したために、三嶋大明神は伊予の大三島神と同体と勘違いされたのではあるまいか。しかし、三嶋大明神は実際には伊予の大三島神と完全に同一というわけではなく、事代主神でもない。伊予では「諸山積大明神」と呼ばれているが、その名が何であれ、伊豆諸島の開拓神にして守護神である「三嶋大明神本地仏薬師如来)」のことだろうと――考えている。

 その三嶋大明神が、伊古奈比咩命を放置したまま白浜から三島市に遷され、源頼朝戦勝祈願などにより発展してきたのが、三嶋大社の起源と沿革なのではないかと思うのである。もちろん新しい発見や、有力な別説が出れば当然ながら見解が変わることもあり得るが、現在のところでは事代主神説はすべて後説と考えられるため、今の時点で、この見解に変りはない

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 史料の比較

 三嶋大明神役行者放免後の霊亀年間から宝亀10年(779)まで伊予国遷座していた?と考えられる伝承に抵触する伊豆側の史料としては、以下の記事が認められる。

伊豆国三嶋神家系図筑波大学附属図書館蔵)によれば、大化五年(六四九)賀茂郡沖の海底火山の噴火により興島(現三宅島か)が出現し、興島大明神が住着いたといい、慶雲元年(七〇四)には伊豆大島が噴火したため、伊豆国守矢田部宿禰金築が三嶋宮惣神主職を承り、興島から大島に同宮を移し、さらに天平七年(七三五)神告により府中に移したという。また「三嶋大明神縁起」によれば、三嶋神は后の伊古奈比咩神とともに伊豆三宅島にあったが、推古天皇二年下田の白浜(古代は賀茂郡)へ飛来したという。はっきりしたことは不明であるが、後述するように一〇世紀初頭にはまだ賀茂郡に所在しているので、平安中期以降に田方郡に移ったと考えられる。天平宝字二年(七五八)一〇月二日三嶋神に封戸九戸が、さらに一二月には四戸が授けられた(大同元年「牒」新抄格勅符抄)。
(以上、ジャパンナレッジhttps://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=598より引用)

などが見られる。

 このうち「三嶋神家系図」では649年に噴火により出現とあるが、興島が三宅島だとしたら、三宅島には縄文や弥生遺跡が存在しているというのに、おかしいのではないだろうか。また735年に大島から府中に移したとしているが、白浜宮を完全にスルーしている。

 次の「三嶋大明神縁起」によると、三嶋神は后の伊古奈比咩神とともに伊豆三宅島にあったとしているが、伊古奈比咩神は富賀神社(とがじんじゃ)が江戸時代に白浜から勧請したもので、祭神の事代主神も先述のように明治の初めに三嶋大社に合わせたものである。

 三嶋神が初め三宅島に祀られていたのは本当かもしれないが、この縁起の伊古奈比咩神の話は順序が逆になっている。それに富賀神社伝承の事代主神は『古事記』では出雲の美保崎で入水しているようなので、舟で列島を迂回して伊豆まで来られるわけもないと思う。しかも、縄文遺跡がある三宅島まで造島したのだという。神話だからといって何でも出来るわけではない。
 伊豆まで来たというのは、事代主神を奉斎した役行者のことであろう。

 つまり、この記事中に「平安中期以降に田方郡に移ったと考えられる」と書かれているのが、最も正しい解釈なのである。

 最後の「新抄格勅符抄(しんしょうきゃくちょくふしょう)天平宝字二年(758)の封戸(ふこ)についてはなんともいえない。「新抄格勅符抄」は大同元年(806)に書かれた原書の何度かの写しのようである。『続日本紀』には書かれていないが、もし正しいとすれば、779年に三嶋大明神大三島から伊豆に戻す必要はないと思うので、伊予の伝承が間違っているのか? それとも、役行者三嶋大明神を連れて上洛した際に、代わりに事代主神を祀っておいたのか? それを勅命により元に戻した、あるいは、そのまま二神を祀っていたということなのだろうか。

 実際に引っかかりがあるのは、この史料ぐらいである。

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 このように若干の問題点はあるが、三嶋大社の祭神は、現行の総称である「三嶋大明神」が最もふさわしい神名ではないかというのが、とりあえずの結論である。

 ただし、大山祇命事代主神が必ずしも間違っているとはいえないだろう。三嶋大社の神紋は「隅切り折敷三文字」で河野氏の家紋と同じであるし、大山祇命を祀れば農産業・海運が発展し、役行者の恵比寿さんを祀れば商業・漁業が繁盛する。神社にとってはまさに鬼に金棒。それに、由緒・起源はさておいても、どの神様をお祀りするかは…神社の自由なのである。

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 余録~伊予の伝承

 河野氏の来歴を記した『予章記』には、はじめに神話めいた三つ子の話が書いてある。  
 孝霊天皇の第三子が鎮護国家のために伊予に来て、興島(松山市の御興島)の和気姫(わけひめ)との間に三つ子が生まれた。それを棚なし小舟で流すと、一子が伊豆の浦に着き、一子が吉備児島に着き、一子は近くの三津に着いた。

 別伝では、流された三つ子を漁師が拾い上げ、最初に吉備児島に連れて行き、それぞれの家で育てた。そのため、それを三宅(みやけ)といった。その後に、一子が8歳のときに伊豆国に渡り、これがのちに三嶋大明神になった。また一子は天性が優れていたので京師(みやこ)に呼ばれて帝に仕え、のちには伊予の小市郡に住んで小千御子(おちのみこ)といわれた。これが小千氏の祖である。また一人は、そのまま吉備児島に残り、三宅を引き継いで、子孫は三宅氏・児島氏になったとある。

 『予章記』のほうは、その過程を多少、はしょっているのかもしれない。

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 ここで言うのは、その一子の話である。

 のちに三嶋大明神となって現じた神話の御子が最初に漂着したのは『予章記』では「伊豆の浦」だが、『水里玄義』には駿河国清見崎」と見える。それが最初は不思議に感じたが、三島神の発祥は三宅島だといわれていたので、「伊豆の浦」を、そのまま伊豆の三宅島だと信じていた。

 しかし『三宅記』を見ると、それは造島伝説から壬生氏が三宅島に来て、そこで三島神を奉斎したからで、三島神が最初から三宅島にいたわけではないようである。三宅島に清見崎があるのかどうか知らないが、この場合の清見崎はどうも本州のようである。 

 そこの浦人により常人の子ではないとして大宅を造って養育されたので「子孫は大宅を名乗り、庵(いお)を並べて住んだ。その処を庵原という」とあり、庵原(いおはら)の部分は、伊豆の浦と書いている『予章記』も同じ内容で、静岡市に古代の庵原国があった。そして、清見というのはその庵原に存在したのである。調べてみると三保の松原の付近らしい

万葉集』にも以下のような歌があるようだ。

廬原(いほはら)の浄見の崎の三保(みほ)の浦の寛(ゆた)けき見つつもの思ひもなし  巻三(296)

 静岡市には大宅姓がかなりいる。高橋氏とかいうのも、関連性があるように言われている。したがって御子が最初にたどり着いたのは、どうやらその海岸のようである。
 その後に三宅島、あるいは白浜に移ったかどうかは知るよしもない。

 因みに、三嶋大明神は伊豆諸島の開拓神であるが、静岡市にも浅間神社があり、こちらは大山積神の女で炎にも耐える木花咲耶姫が祀られている。どちらも噴火を司る守護神で、それぞれが伊豆諸島と富士山の噴火封じの神様にもされているのではないか。

 それが源氏により武家の守護神としても尊崇されるようになったために、街道沿いの府中の方に遷されてきたとも考えられる。その点は伊予の大三島も同じであり、おびただしい数の刀剣類とともに、源義経源頼朝鎧が奉納されている。

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 ついでに、なぜ三嶋神と呼ばれているのか。

 三島は、伊予では見島とも、御島ともいった。見島は沖に見えるからで、御島は尊称である。その御島が三島とされるのは音が通じるので不思議とはいえないが、しかし、それがわざわざ三島になっているのは、東海中にある伝説の三神山(蓬莱・方丈・瀛洲)になぞらえたのではないかと思う。つまり、古代の神仙思想の影響によるものではないだろうか。『予章記』(上蔵院本)にも、嘘か真か、そう書かれていた

 




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