鄙乃里

地域から見た日本古代史

蘇民将来と荒ぶる天神 ② ~牛頭天王~

 牛頭天王(ごずてんのう)については、寛永11年(1934)に古本を書写した『祇園牛頭天王御縁起』に、浄瑠璃浄土薬師如来牛頭天王として垂迹したとある。

 その起源は、古代インド神話によると世界の中心に須弥山(しゅみせん)があり、その中腹に豊穣国があって、その国の王を武塔天王といったとしてあり、仏教世界の伝説になっている。

 須弥山も想像上の山ではあるが、モデルとしての山はチベット高原の西端でネパールの北にあるカイラス山(6656m)だといわれている。
 ラマ教ヒンズー教・仏教の聖地とされ、入山は禁止。これまで登った者は、聖者が一人いるかいないかだそうだ。

 たしかに、カイラス山は聖地にふさわしい山容をしている。形のよい独立峰や高山は神が宿る山として聖山とされることが多いが、この山は、その両方を満たしている。

 須弥山と崑崙山は、インドから見た仏教的世界観と中国から見た道教的世界観の違いがあるだけで、同じ山を指しているとの説もあるが、その場所については、前章で書いた崑崙山脈の北側の地域と、ヒマラヤ山脈の北側では、場所的にかなりの違いがあるように思われる。

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        (外務省 世界区分地図 に位置印を加工)

 ともあれ、その武塔天王には「一人の太子がいて、七歳にしてその身丈は七尺五寸、頂に三尺の牛頭があり、また三尺のあかき角あり…牛頭天王と号し奉る…」とある。

 また別の説によると、牛頭天王そのものが武塔天神だという。その国を九相国とも吉祥国とも豊穣国ともいい、牛頭天王は、その国王になっている。九相国以下の国は、漢訳する側で変化したのではないかと察せられ、たぶん同じ国名を指すのだろう。

 さらに別説によると、牛頭天王王舎城の王だとする。王舎城(ラージャグリハ)はインド北部にあったマガダ国の首都で、現在のビハール州ラジキールである。それなら、九相国以下の国もマガダ国また王舎城のことと考えていいだろうか。

 


 旧王舎城があったころは釈尊の伝道時代でもあり、釈尊はマガダ国王ビンビサーラ(在位は不詳ながら、前543頃‐前490頃とされる)の援助を受けて、郊外の竹林精舎で説法を行っていた。ビンビサーラ王は、晩年は王子アジャータシャトル(阿闍世)に幽閉されて殺されたと伝えられている。

 しかし、この地に牛頭天王にぴったりの王の伝承はなさそうである。強いて言えば、王子アジャータシャトルは父王に対して恨みを抱いていたようなので、アジャータシャトル牛頭天王のモデルなのだろうか?  旧王舎城は火災で焼けて荒れ果てたが、近隣国の侵略を防ぐため、アジャータシャトルが別の場所に王舎城を創設したとも言われている。

 さて、説話の物語に入るが、牛頭天王はかねてより后を迎えたいと望んでいた。しかし、その恐ろしげな様相から近づく女性もなく、ほかのことで気を紛らわしていたところ、あるとき山鳩が飛んできて、南海に八大龍王のひとり娑伽羅龍王(しゃがらりゅうおう)がいて、その王には娘がたくさんいる。その第三女を迎えるようにと教えてくれた――というところから始まる。

 そこで牛頭天王は、山鳩の教えに従って旅に出た。
 その旅の途中で日が暮れかけ、巨旦将来(こたんしょうらい)という長者の家を見つけたので宿を求めたところ、邪見に断られてしまった。それで今度は蘇民将来(そみんしょうらい)という貧者に宿を求めたら、こちらは茅(かや)の筵(むしろ)と粟の飯ではあるが、快く牛頭天王を歓待してくれた。

 それに感嘆した午頭天王は、牛玉を与えこれを所有するものは諸願が成就するだろう」と蘇民に教えた。日本神話の海幸・山幸に似た話だが、それから龍宮に行き、王の三女の婆利采女(はりさいにょ)を后として龍宮で八年を過ごし、八人の御子をもうけたという。

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 さて、そうこうするうちに国へ帰るときが来て、また蘇民将来の家に立ち寄ってみると、蘇民は牛玉のおかげで前より富裕になっていて、喜んで牛頭天王を迎えた。そこで牛頭天王は、これからあの巨旦の家に行って彼を罰しようと思うと言った。

 巨旦将来のほうではそれを知って、大勢の法師を集めて読経させたが、牛頭天王は気の緩んだ法師の隙間から家に家来を入らせて、巨旦の全員を蹴殺させたという。

 宿を貸さなかったぐらいでずいぶん乱暴な話に思えるが、慈悲心のない邪険な奴らは罰を被るのが当然だというのが説話の教訓らしい。

 そのとき蘇民の娘も巨旦の家に居たが、茅の輪(ちのわ)を付けさせていたので助かったという。閻魔大王も顔負けの話だが、牛頭天王行疫神(ぎょうえきじん)なので、疫病が人に容赦をしないのはある意味当然であろう。しかし、ここまでするからには、牛頭天王には、ほかにも巨旦に何か恨みがあったのではないだろうか。

 反対に蘇民将来は貧しくても慈悲心をわきまえていたため、子孫にいたるまで、庇護を約束されたという話である。


  『備後国風土記逸文では、そのとき午頭天王は「
自分は須佐之男」だと名乗り、それ以後、茅の輪を付けて蘇民将来の子孫と言えば、疫病から免れることが出来るとのことで、今でも茅の輪くぐりは神社の夏の行事になっている。

 この説話の一部の個所は『旧約聖書』の過越とよく似ている。というよりも、過越そのものである。ミケランジェロその他のモーゼ像には頭に角が生えている。牛の角ではなく、遊牧民らしく羊の角のようであるが、午頭天王の頭に角を生やした人は、もしかしたら、そのときにモーゼや過越のことを意識していたのだろうか? だとすると、説話の午頭天王はイスラエルの神から力を授かったモーゼにあたり、巨旦将来はエジプトのパロ、蘇民将来イスラエルの民にも重なってくるのだが…。


 かつて古代インドに
存在したコーサラ国のスダッタ長者は、舎衛城(シュラーヴァスティー)から王舎城にやって来たとき、仏陀の教えを聴いて深く帰依したという。そして、コーサラ国でも説法を行って欲しいと、舎衛城近郊にジェータ太子の園林を見つけ、金貨を敷き詰めて土地を手に入れ僧院を造った。それが祇園精舎で、現在のウッタル・プラデシュ州のサヘートである。

 午頭天王はその祇園精舎守護神であると、なぜか日本では伝えられている。しかし、その根拠には触れられておらず、インドにはそのような伝承はなさそうにもみえる。午頭天王が、なぜ守護神とされるのか見当もつかない。仮にアジャータシャトル王が午頭天王のモデルだとすれば、仏陀の教えを聴いて改心したので、少しは納得できるかもしれない。それでも、祇園精舎はマガダ国ではなく、コーサラ国であり、遅くとも玄奘三蔵法師が訪れたときには、すでに荒廃していたと伝えられ、現在、跡地は聖蹟公園になっている。荒廃以後は、祇園精舎はなかったのと同じである。

 牛頭天王については神道集にも色々書かれているが、どれもあやしげな話だ。   
 日本の祇園社はシオン(ユダヤの神殿があった丘、エルサレム)社だという人もいる。祇園社で祀られていたから、祇園精舎でも守護神と考えられてしまったのか…。

 疫病はいつの時代でも、誰からも恐れられていた。そのため、牛頭天王「天王さん」として祀る神社は、江戸時代までは各地に存在していたのである。

 それにもかかわらず、蘇民将来説話以外に、その詳しい経緯について書かれた史料はほとんど見つからない。牛頭天王祇園精舎の関係については、どうやら迷宮入りになるのかな?





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