十河総裁の人物像
十河信二(そごうしんじ)国鉄総裁は、外見はワンマンで頑固であったようですが、道理や温情には従う人で、内心、奥さんには頭が上がらなかったものと思います。
十河信二胸像 伊藤五百亀作
実は、十河さんがキク夫人と結婚したのは、まだ東京帝大在学中のことでした。キクさんは若いころは音楽の才能に秀でていたそうです。しかし、それをなげうって十河さんを支える家庭の道を選んだのでした。そのことを十河さんはずっと胸の奥に受けとめていたのでしょうか、奥さんが亡くなった時には、相当堪えていたそうです。
以前にヨーロッパを視察したときには、心臓が弱く同行できない奥さんのために、毎日10枚ずつもの絵葉書を書き送っていました。十河さんは愛媛県の出身ですから、西条図書館と市立博物館にその絵葉書の一部が展示されていますが、絵はがきばかりではなく、文章の添え書きもたくさんしてあります。
十河さんのことでいちばん感銘を受けるのは、どんな大物にも付和雷同しない独立独歩の精神と、この奥さんへの絵葉書のことなのです。 それは自伝の『有法子』を読んでもよく分かります。
有法子
自伝のタイトルの『有法子』ですが、この中国語の「有法子(ユーファーズ)」は「没法子(メイファーズ)」(「どうしようもない」という諦め思想)の反対語で、まだ方法がある、もっと努力しようといったプラス思考です。
十河さんが満鉄か興中公司(こうちゅうこうし)の時代に聞いた言葉で、総裁就任時に部下にも訓示し、十河さんの「座右の銘」の一つとして国鉄の教育機関の講堂に掲げられていたそうです。
西条市の病院や公共施設にも十河さん自筆の墨書による「有法子」の額装がホールなどに掲げられていましたが、上記のような励ましの意味を込めて、落成祝いに寄贈されたものでしょうか。
また、十河さんの母校である西条高校の教育目標の一つにも「有法子」が採用されています。
有法子(ユーファーズ) ― 困難に打ち勝つための3つの力
○ 自分を信じて、粘り強く前に進む力
○ 課題を発見し、科学的に思考し解決していく力
○ 他者と協働し、新しい価値を創る力
今の後輩の生徒たちにも「有法子」の精神は引き継がれているようです。
十河さんの座右の銘としては、ほかに「一花開天下春」(いっかひらいててんがのはる)というのもあります。
東京駅の新幹線ホームの記念碑に十河総裁のレリーフが刻まれていて、十河さんはそれを見て「似とらん」と言ったそうですが、そこに、この「一花開天下春」の言葉が添えられています。もとは禅語らしく、実際の花や心が開いた有り様を言うのでしょうが、新幹線の開通を祝っているようにも受け取れます。
それから、十河さんの俳号に「春雷子」があり、職場内で雷がよく鳴るので部下が名づけたそうですが、十河さんは「春の雷は鳴っても、実害がない」と言ったそうです。一年の始まりの春が好きだったのかもしれません。
十河さん生前の多数の蔵書は市立西条図書館に十河文庫として寄贈せられ、現在、伊予西条駅東側に「四国鉄道文化館」と「十河信二記念館」が開設され、郷土出身の彫塑家、伊藤五百亀(いとういおき)氏による十河信二の胸像も設置されています。
十河信二記念館 小さな記念館ですが、十河さんに関する資料やビデオ、日ごろ愛用していた道具類などが展示されています
記念館開設の理由は、十河さんが新居郡中村(新居郡は旧西条市と新居浜市)の生まれであること。尋常中学校東予分校(現在の西条高校)を卒業して、第一高等学校、東京帝大法科へと進学したことや、東京に西条学舎・東予学舎を造って、郷里の後輩の面倒を見たりしたこと。昭和20年頃には短期間ながら第二代西条市長も経験していることと関係があるのです。
大正12年(1923)9月1日の関東大震災のあと帝都復興院で働き、昭和5年(1930)には満鉄理事・興中公司の社長になって発電所建設などを行い、1963年国鉄総裁退任後は、その功績に対して勲瑞宝一等章が授与され、第一回の西条名誉市民に選ばれています。
しかしその経歴を見ると、十河さんの公職は、ほとんどが自分から選んだものではないようです。帝都復興院の仕事は後藤新平総裁から、満鉄理事は仙石貢総裁から、国鉄総裁も時の鳩山一郎総理などから要請されて引き受けています。
昭和20年頃はとくに何もしていなかったので、地元住民から西条市長を依頼されたのですが、その人の息子さんの話によると「十河先生は『加茂川の松を盆栽にするのか』と当初不服そうだったが、故郷のために快諾した」(愛媛新聞社『発掘 えひめ人』)とあり、地元の市長就任も、やはり要請されたものでした。
この加茂川は西条市の加茂川のことで、以前は土手に立派な日向松の並木が聳えていたのです。「野外で自由に生きているものを、市長なんぞというちっぽけな鉢に閉じ込めるのか」といった意味なのかもしれません。
こんな話も、十河さんの人柄を感じさせる、ひとつのエピソードといえるでしょう。
西条市長退任後は国鉄弘済会の会長その他に就き、昭和30年に、なり手のいない第四代国鉄総裁を要請されました。そのときは高齢で体調を壊していた時期でもあり固辞したのですが、「線路を枕に討ち死にする覚悟で」と、最終的には引き受けたそうです。
十河総裁も、島技師長も、その後は長命で余生を過ごされたようです。
今日の新幹線の姿を見て驚かれているかもしれません。
おわりに
日本の新幹線は「無事故が売りもの」とよく言われますが、それは速度の追求だけでなく、何よりも安全性をコンセブトに開発されてきたからです。
その点は新幹線の優れたところで、今後も注意深く怠ることなく、日本の公共交通機関の信頼性を世界に高めていって頂きたいものですね。
(新幹線物語 了)