鄙乃里

地域から見た日本古代史

新幹線物語 ① ~日本の高速鉄道計画~ 

 日本の高速鉄道「新幹線」は、2015年3月に北陸新幹線、2016年3月に北海道新幹線と続けて開通し、5月の連休中は多数の観光客が石川県や北海道を訪れて、現地はにぎわっていたとの報道がありました。

 北陸や北海道にかぎらず、大型連休中は日本中の新幹線は常に満席状態で、中央と地方・都会と故里の間を大勢の人々を乗せて往来しています。

 もちろん、日常の生活やビジネスにおいても新幹線は盛んに利用され、近年は海外にまでシステムが輸出されるなど売り込みのほうも積極的に行われているようです。

 また新幹線の車両も昔と比べると格段の進歩を遂げ、現在の国民の生活にとって、もはや欠かすことのできない主要な公共交通機関として、その重要性は誰もが認識し、実感しているところです。 

 しかしながら、その開発に当たっては、関係者の想像を超える陰の努力や苦労があり、彼らを支えた周辺の人々の多大な尽力の積み重ねが存在したことは、想像するに難くありません。

 それは旧国鉄関係者だけではありません。用地の買収や土木工事を担当し、車両をはじめ、機械・設備を製造し敷設した人たちはもとより、心ならずも用地の立ち退きを迫られた住民や、沿線の騒音被害者までも含めて、多方面の人たちの大きな負担と協力の上にはじめて、国民全体が利便を享受できる今日の主要な交通手段へと発展してきたものです。決して少数の人たちの汗や力だけで、この新幹線プロジェクトが完遂されたわけではありません。


 けれども、どんな分野のプロジェクトにも、それを中心になって推進させた革新的な存在が、必ず必要だったこともまた確かなのです。そういう人たちが存在しなくては、この計画は前進しませんでした。 

  それを代表する人として、新幹線計画の場合は、生みの親といわれる第四代国鉄総裁の十河信二と、島秀雄技師長の二人を挙げることができるでしょう。 


 従来の狭軌(1067mm)でなく、広軌標準軌1435mm以上)を高速で走らせる列車の構想や話そのものはかなり以前からあったと思われますが、当時はまだそれだけの技術力もなく、巨額な開発費用や人材を必要とするため、実際には夢物語としか考えられておらず、現実問題として賛同する人も少なかったようです。 

 しかし、そんな周囲の大勢(たいせい)の中で、70歳を過ぎて国鉄総裁を要請された十河さんは、日本の将来のあるべき姿を思い描き「鉄道は国民の動脈である!」として、高速鉄道の開発を断固進める決断をしました。

 そして、それを技術的に可能にする人として、当時国鉄を辞めていた島秀雄技師を副総裁格のプロジェクトの技師長に登用したのです。その上で開発の技術的な方面は島技師長に一任し、自身は政治家との折衝や予算の獲得に奔走して、この二人のコンビで高速鉄道のプロジェクトを前進させていくことになったのでした。


 膨大な費用の捻出にあたっては、まともな相談では国にも相手にされないため、各方面の助言も入れながらいろいろな方策を考え、うまく話を持っていってまとめたことから、あとからバッシングされたこともあったようです。 

 もちろん、技術面でも大変な壁があったようで、そのような多大な苦心の結果、さまざまな難題を乗り越えて、ついに新幹線計画が完成し、1964年10月10日の東京オリンピックの直前(10月1日)になって、東海道新幹線東京・新大阪間開通したのでした。

 


 0系新幹線先頭車両の部分





(次回へ続く)