津和野には2度ばかり行きましたが、いずれも写真がないので、津和野の郷土館でもらった資料と当時の絵はがきから掲載します。
津和野へ行くには、山陽本線小郡駅から、山口線をC57蒸気機関車で山越えしました。ご存じのように「貴婦人」と呼ばれています。そういえば途中の山口にも幾度となく行っているので、C57にはずいぶんお世話になっているわけです。今はC571は臨時運行のみで、小郡駅も新山口駅に名称が変わっているようです。
太鼓谷稲荷神社
太鼓谷稲荷神社の社殿に上がるとたいへん見晴らしがいいです。京都深草の伏見稲荷神社のように朱塗り鳥居の長いトンネルもあります。交通安全祈願に訪れる人が多いようですね。(カラー写真がいい人は公式サイトがあります)
鷺 舞(さぎまい)
津和野の鷺舞は天文11年(1542)に山口の鷺舞を移したのが始まりとのことですが、正保元年には津和野藩主亀井茲政(これまさ)公が京都祇園会からあらためて伝習させました。元祖の京都と、山口の鷺舞が絶えただけに、全国で唯一残る貴重な神事だそうです。残念ながら実物はまだ見てません。
森鴎外旧址
明治の文豪で軍医でもあった森鴎外の旧宅に行きました。簡素な庭、当時のままの旧宅です。ここで少年時代の鴎外が育ったと想像するだけでも、何かしら心打たれるものがあります。
鴎外の長編小説はあまり読んでいませんが、短編は「高瀬舟」「追儺」などいくつか読みました。「山椒大夫」は小学生の時に少年文庫や、溝口監督の映画でも観ています。雅文体ですが「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」なども心打たれる作品でした。ドイツ遊学中に知り合った女性が、はるばる日本まで訪ねてきたとのことですが、当時の日本の現実では難しかったのでしょうか。わずか一月ほど滞在して、ドイツへ帰ったそうです。それで作品に結実したのかもしれませんね。
西周旧宅
森鴎外の旧宅から津和野川を隔てたほどないところに西周(にしあまね)の旧宅があります。白い土塀か蔵があったように記憶しています。
明治時代初めの啓蒙思想家・教育者で、西洋哲学を我が国に紹介しました。家は津和野藩の御典医をしていましたが、西周は津和野を脱藩したとのことです。その後、幕命によりオランダのライデン大学に留学。現在も使われている様々な哲学・科学の学術用語を考案し、「哲学」という熟語そのものも西周が考えたものです。
森鴎外とは遠戚に当たるようです。
乙女峠
長崎浦上村のキリシタンを改宗させるため幕府が津和野藩に預けた信徒は153名。乙女峠の廃光琳寺に収容されて大変な殉教の被害に遭ったとのことです。迫害は明治6年まで続いたとのこと。
西洋列強による植民地支配を危惧したものか、浦上村のキリシタンに罪があるわけではないのに、法度を盾に取った強権・盲動としかいえない非道な仕打ち。そんな弾圧が明治時代にまで続いていたかと考えると、人間の非寛容と無知蒙昧ほどおそろしいものはありません。
覚皇山永明寺(ようめいじ)
曹洞宗の古刹で、津和野藩主代々の菩提寺になります。
永明寺庭園
背景(写真手前側)が山で庭園の借景になっていました。向こうの縁側に座って庭を観賞しました。たしか庭の真ん中あたりに紫木蓮が植えてあった。
坂崎出羽守の墓
坂崎出羽守は宇喜多直家の甥で関ヶ原の功績で津和野藩主になりました。大坂夏の陣で大阪城から千姫を救出した者に姫を与えるとの家康の言で、燃える城中から千姫を救出したが叶えられず、逆に奪回を企てたとして処罰されたという。悲劇の武将とされています。
墓は永明寺にあって、本名が不都合のためでしょうか? 坂井出羽守となっています。
森鴎外の墓
津和野の鴎外の墓は東京三鷹の禅林寺墓地から分骨したそうで、両親や祖父の墓に囲まれています。右の静男というのが父親です。
「余ハ石見人 森林太郎トシテ死セント欲ス・・・
墓ハ 森林太郎墓ノ外一字モホル可カラス」
の遺言通り、禅林寺墓地と同じく簡潔明瞭「森林太郎」の名前だけです。
津和野はごく狭い範囲に数多くの見所が集まっている町で、歩いてもさほど疲れません。それに町並みのいろいろな所に水路があり、錦鯉が泳いでいて、旅の疲れを癒やしてくれます。
津和野を最初に訪れたのは、地名にふさわしく、永明寺にツワブキが咲く頃だったかと思います。
人気の観光地です。