鄙乃里

地域から見た日本古代史

崇福寺と西海橋 長崎②

崇福寺(そうふくじ)

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 長崎市にある黄檗宗(おうばくしゅう)の寺の一つで、中国様式。国宝や重文の建物があります。

 江戸時代初期の寛永6年(1629)に、長崎在住の福建省出身者が中心になり、福建省から僧の超然を招いて創立したと説明されています。

 その後、承応3年(1654)には明僧の隠元が来朝して、翌年、この寺にも入ったそうです。

 寺の三門は赤い色で龍宮城のような形をしているので、龍宮門とも呼ばれています。

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 第一峰門(だいいっぽうもん)        (観光バスの記念写真から

 中に入ると明末の様式を取り入れた第一峰門があり、本堂の大雄宝殿とともに、国宝指定です。元禄8年(1695)に建設された門で、当初はこれが三門だったそうです。

 

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 崇福寺の大釜

 境内にあります。
 天和元年(1681)長崎が大飢饉に見舞われ、その救済のため当時の住職千呆(せんがい)が町に托鉢(たくはつ)に出て施粥(せがゆ)を始めました。しかし、施しを受ける者が次第に増えて飢饉も長期化したため、天和2年(1682)に大釜を鍛冶屋町から運んできて、最初は本堂前のかまどに乗せていたそうです。口径6尺5寸、深さ6尺とのこと。これで粥を炊いて難民に施したと伝えられています。

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西海橋(さいかいばし)

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 西海橋は上の写真とは別の日に訪れたものです。


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 西海橋付近で              提供写真より)         

 レストハウスは他の場所に出来ていますが、この建物はもうないでしょう。

 1958年に開館した水族館も、1988年には閉館し、現在は廃墟になっているとのことで、時代の流れを感じますね。

 

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 西海橋上で                                           

 自家用車はまだ少ない時代です。
 今でも乗りたくなるような車です。

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 西海橋

 西海市佐世保市とをつなぐ全長316mのアーチ形の橋で、大村湾が外海とつながる針尾瀬戸(はりおせと)に架かっています。昭和30年(1955)に完成し、当時はまだ有料だったようです。

 現在ではすぐ西側のパールラインに全長620m、4車線の新西海橋も架橋されています。西海橋はアーチの上に道路があり、新西海橋はアーチの中央に道路がある構造になっています。

 西海橋完成当時は東洋一長い固定アーチ橋といわれて、橋そのものが観光資源になっていました。見晴らしのよい開けた景観が爽快です。





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