指宿に行ったのはいつだったかな?
たしか…11月だったね。
カラー写真も色あせて、ずいぶん変色してしまった。
それでも…開聞岳は開聞岳。
崎の風にないて散る 浜木綿かなし恋の花
薩摩娘は長崎鼻の 海を眺めて君慕う
「南国情話」の歌は、当時からバスガイドさんが歌っていました。
憶えやすいので、みんなすぐに覚えてしまったようです。
石本美由紀さんの作詞でしたね。
指宿観光ホテルの窓から
指宿で泊まった旅館です。ホテルといっても普通の旅館。
窓から海がよく見えていました。
とくに夕方の眺めがよかった。
指宿では、砂風呂やジャングル温泉にも行ったと思う。
観光ホテルの付近か、指宿枕崎線の車窓から撮った写真かなと思います。
これも同じ。錦江湾は幕末にイギリス艦隊が入ってきたところ。
知林ヶ島は錦江湾内最大の島で、無人島。広い砂州が出来ます。
観光客が結構多かった。とか、自分も観光客 (^^;)
磯公園か?
菊花展
園内で菊の展示もやっていました。
西郷隆盛像
桜島遠景
我胸の燃ゆる思ひにくらぶれば烟(けむり)はうすし桜島山(平野国臣)
桜島までは渡船で20分でした。
林芙美子文学碑
花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき
「母は九州の桜島の温泉宿の娘である。」と『放浪記』に書かれているように、林芙美子の母は鹿児島からこの桜島の古里温泉に来て働いていたようです。
ちょうどそのころ伊予の太物の行商人であった芙美子の実父・宮田麻太郎も、鹿児島を回っていて知り合ったのでしょう。父のほうが年下でした。
しかし、麻太郎は根っからの行商人ではなく、実家は伊予の新町という土地でちゃんとした雑貨屋を営んでいました。 たまたま何かの事情で、その時期に行商に出ていたものと思われます。
そのあと二人はいっしょに行商の旅に出て、いろいろな土地をめぐったあと、下関周辺にしばし留まります。 「私が生まれたのはその下関の町である。」と芙美子は書いています。 ただ、実際には門司の小森江だった可能性が高いようです。
若松で両親が離縁したあと、小学生の芙美子は父の雇い人だった養父の沢井喜三郎と母と三人で再び行商の旅に出ることになります。
そこから『放浪記』の物語が始まっているわけですが 、やがて尾道の町にしばらく定住することになり、尾道高等女学校に入学して、文学の道に目覚めていったのでした。
この古里温泉には、たしか旅館が2軒ぐらいあったきりで、文学碑はありましたが、林芙美子の銅像とかはまだなかったように思いますね。
桜島は大正3年(1914)の大噴火で、大隅半島とくっ付きました。
大量の火山灰で神社の鳥居が上部だけ残して埋まっているところがあります。
芙美子が一時期、鹿児島の母の実家に預けられていたのは、ちょうど、その噴火のころだったようです。
その後に直方など炭鉱町に行ったのではないだろうか?
11月でも鹿児島は、とくに暖かく感じました。