大社駅で降りて鳥居をくぐり、松林を抜けて広い境内の玉砂利を踏みながら粛々と歩くと、ほどなく拝殿が見えてきます。
出雲大社は縁結びの神様といわれるだけあって、さすがに大勢の人出です。この日は参拝者というよりは観光目的の団体さんのほうが多かった印象ですが、境内に結ばれたおみくじを見ると、やはり縁結びの神様かなと実感されます。
出雲大社本殿
現在の本殿は延享元年(1744)の遷宮の際に造営されたもので、以後は修造による遷宮が続けられているようです。
・向こうの高い神殿が本社本殿、祭神は大国主大神。
・真ん中が大神大后神社(御向社 みむかいのやしろ)、祭神は正后・須勢理毘賣命。
・手前は伊能知比賣神社(天前社 あまさきのやしろ)、祭神は蚶貝比賣命(きさがいひめのみこと)蛤貝比賣命(うむがいひめのみこと)。『古事記』神話で大国主命が火傷で亡くなったときに、神産巣日神が命じて大国主を生き返らせたという。キサガイヒメノミコトは『出雲国風土記』では神産巣日神の子で加賀の潜戸に出てくる。ウムカイヒメノミコトも神産巣日神の子で法𠮷郷の地名説話に登場する。が、ここに祀られている正確な理由は不明。
写真では見えませんが、本社の向こうにも神魂御子神社(筑紫社 つくしのやしろ)があり、大国主の妻、多紀理毘賣命が祀られています。
日本交通公社のガイドブックを見ると、本殿の高さが25m、堅魚木1本の直径が70㎝、1.9tと書かれていました。下からはそんなふうに見えないのですが、実際は大きいのかもしれません。
底つ石根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりて
「大国主の国譲り」とよく言われますが、何も自ら進んで国を譲ったわけではないでしょう。だからこそ、求められても、なかなか返事をしなかったのです。それでしびれを切らしたタカミムスビ神が二人の強面(こわもて)の命(みこと)を使わして督促したのだと思います。
稲佐の浜で意向を聞かれた大国主命は、息子たちに任せてあるから息子に訊いてくれと答えます。そこで美保の崎へ行って事代主命に迫ると当然「とんでもない」と承知しません。それでも戦になると事代主命は勝てないので、拒絶と抗議の意思を明確に示して、自ら入水したのだと思います。
使いは帰ってきて「事代主は承知して幽界に去った」と大国主命に適当な報告し、さらに怒ってやってきたもうひとりの息子、建御名方命も実力で追い払ったので、大国主命も観念して「それでは、この国土は高天原にお譲りしましょう。政(まつりごと)は天孫にお任せしましょう。ただし、この出雲国だけは私の国であり、ここに私のために立派な宮を建ててください。そうしたら、そこで、静かに籠もりましょう。」と言い、高天原も「もっともです、そうしましょう。国政のことは天孫に任せて、あなたは幽界で神々を治めて欲しい。祭祀のことは天穂日命に務めさせましょう」と契約しました。そして、大国主命のために土を突き固めて、とくに立派な宮を造ったのです。
それが、この杵築大社(出雲大社)だと言われ、今の本殿は高くありませんが、古代の大社は見上げるほど高かったと伝えています。
最近は平成25年(2013)に本殿の改修が終了し、御祭神を仮殿から本殿へ遷座する平成の大遷宮(本殿遷座祭)が挙行されました。
出雲大社の祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。宮司家は天穂日命の子孫と伝えられる出雲国造家から出た千家家で、古代から代々、神職を継承している名家。2014年10月5日には、出雲大社権宮司の千家国麿さんと高円宮家の次女典子さんが結婚式を挙げられました。
注連縄の話
出雲大社の大注連縄
拝殿の注連縄はそれほどでもないですが、神楽殿の注連縄はたいそう大きなものらしいです。拝殿の注連縄は長さ6.5m・重さ1tですが、神楽殿の注連縄は長さ13.6m・太さ8m・重さ5.2tだそうです。
もっとも、当時は神楽殿がなかったので、注連縄も見ることはありませんでした。
拝殿の注連縄でも作り替えるには30人で4ヶ月もかかるらしいです。当時のガイドブックには8mと1.5tと書いてあります。現在のほうが、ちょっぴり小型になっているのでしょうか?
おみくじの木
「おみくじの木」という木があるのではありません。おみくじが結んであるので「おみくじの木」。念のため。(^^;)
出雲大社は、島根県出雲市大社町杵築東195に鎮座します。
以前は山陰本線の出雲市駅から大社駅までの鉄道が通っていたと思うのですが、いつのまにか廃線になっています。
現在は、出雲市駅からだと一畑バスが通っていて、30分ぐらいです。ほかにも近くに一畑電鉄があり、乗り換えで大社駅まで行きます。直通便も何本かはあるようです。出雲市駅周辺に出雲大社はありません。
出雲大社の場合、通常の正式な参拝作法は「2礼4拍手1礼」です。