春や昔十五万石の城下かな
古くは中世伊予の守護大名・河野氏の居城があったところで、低い丘になっています。外周はその湯築城(ゆづきじょう)の外堀に囲まれています。
明治期に初代の道後湯の町町長だった伊佐庭如矢(いさにわゆきや)が明治27年(1894)に道後温泉本館を建てたころに、同時にこの地も整備されて、公園が造られたといわれます。
内藤鳴雪(ないとうめいせつ)の句碑
大正7年(1918)10月27日の除幕。道後公園西入り口にあります。たぶん今も。
元日や 一系の天子 不二の山 鳴雪
内藤鳴雪は松山藩士に生まれ、明治期は官職にも就いたようですが、後に正岡子規の影響で俳句の道に進みました。
新温泉の建屋
昭和23 年(1948)に完成し、昭和54年(1979) 1月 に閉鎖された建物で、跡地は松山市立子規記念博物館になっています。現在はありません。
道後公園には、小学生の時にも博覧会を見に行ったことがありました。
いろいろな出し物を見物した後、中央にしつらえた舞台で夢路いとしさん・喜味こいしさんの漫才を聴きました。テレビがない時代で、ラジオでよく聴いていた有名な漫才コンビのやり取りを本物で聴けるのは、地方にとって珍しいことでした。
そのあと落語か漫才か二人組で、後ろの人が前の人の袖から手を出して、前の人の云う通りに手を動かしたり、三味線を弾いたり、云うこととは違う動作をして笑わせたりする出し物もありました。
土産には5センチ角ぐらいのダンボのバッジを買って帰りました。安全ピンで止めるようになった薄いブリキ製のきれいなバッジで、しばらく大切にしていました。ダンボはディズニーのアニメ映画の空飛ぶ象の主人公で、こどもに人気があったのでした。
道後公会堂
大正15 年完成。新温泉の東側に隣接してありましたが、跡地は同じく、子規記念博物館になっています。
道後公園道端の民家
こうした懐かしい民家も、もうないでしょう。
現在の道後公園
昭和62年(1987年)10月に公園内にあった動物園が閉園した後、発掘調査で湯築城関係の遺構・遺物が多数発見されたため、それらの文化財を生かした公園としての整備が進められ、平成14年(2002年)4月に、改めて新装オープンしているとのことです。
松山市街
道後公園展望所から見た松山の町。松山城と電波塔が見えます。これは今も同じ風景です。家や建物は変わっていますが。
城山送信所電波塔
2011年夏にアナログテレビジョン放送が終了したあとは、NHK松山FM放送のみの送信に使用されているようです。
道後動物園のアミメキリン
道後動物園は、現在の「とべ動物園」の前身です。
それまでは、この道後公園で開園していました。
昭和28年(1953)10月1日に開園して以来、公園のメインの施設として人気がありました。しかし、道後公園は街中にあるため、動物園は種々の問題を抱え、施設の老朽化に加えて規模の拡張も望めませんでした。
そのため愛媛県総合運動公園内に新たに「とべ動物園」を開園し、昭和63年(1988)4月に移転したものです。
グリコとビスコは菓子の広告でしょうか。それとも、アミメキリンの名前でしょうかね。
冬の陽がよく当たってのどかですね~
こんな風にのんびりしてみたい。(^^)
現在の「とべ動物園」はシロクマピースの人工飼育で知られていますが、アフリカ象の赤ちゃんやチンパンジーの赤ちゃんも誕生して注目されているそうです。
松山市も終戦時は空襲に遭いましたが、愛媛県の県都であり、以前から県内第一の商都として賑わっていました。
しかし、最近は松山城・道後温泉に加えて、子規記念館、伊丹十三記念館、坂の上の雲ミュージアム、俳句甲子園など文化的な街造りと観光に力を入れ、人口50万余の四国を代表する都市に成長しています。