鄙乃里

地域から見た日本古代史

霊の洞窟・曲水の石庭 秋芳洞と漢陽寺

 秋芳洞 

 秋芳洞は、山口県美祢市(みねし)の秋吉台南麓にある有名な鍾乳洞。

 入り口の高さは24m、幅は8m、全長10kmあり、内部は石灰華の段丘や黄金柱など変化に富んで神秘、まさに霊の洞窟といった感じです。

 ちょっと意外だったのは、秋芳洞命名者が昭和天皇だということ。大正15年の皇太子時代に秋芳洞を探勝されたことがあるそうですね。




 鍾乳洞入り口

 写真のように修学旅行生もいっぱい来ていました。

 通路の横は谷川で、洞窟から流出した地下水が川になって下っています。 

 全長10kmのうち、一般に開放されている(観光コース)のは1kmだけとのことですが、内部には照明も通路も完備されていて十分見応えがあります。

 

 秋芳洞は行かれた方も多いと思いますが、まず洞窟に入った一歩からが驚きです

 入り口をくぐると、洞内は冷たい地下水が外に流れ出す大きな川があって、広大な空間が開けています。洞口との境は水流が渦を巻く竜が淵というところです。

 秋芳洞の沿革は南北朝時代に干ばつに苦しむ民を救おうと、ひとりの僧が洞内に籠もって降雨祈願したのが始まりだそうです。ところがその僧は、祈りが雨を呼んで大願成就を果たすと、報恩のため、その渦巻く竜が淵に身を投じた…というのだから、度肝を抜かれます。秋芳洞にほど近い寺の寿円禅師という聖(ひじり)で、ほんとうの話だそうです。

 説明のため、当時のイラストの絵はがきを1枚お借りしました。

 


 竜が淵    え・大庭龍偲 (複製禁止)

 その洞口を入った川の反対側上方の薄暗がりには六地蔵といって、お地蔵さんの姿をした岩があります。六地蔵尊は人間が六道輪廻(ろくどうりんね)をさまよう間、道を外さないように護ってくれているのです。そこから通路を先に進んでいくと、広い段丘に湧出する地下水が扇状に流れて無数の棚田のような形状をなしている百枚皿というものがあり、世界的にたいへん珍しい造形だそうです。

 


 百枚皿   当時の絵はがきから)        (複製禁止)

 

 そこからまた進むと(順不同ながら)真っ直ぐに立ち上がった黄金柱や、ゴジラの頭のような黒い岩塊。のっぺりした岩壁から突き出した巨人のげんこつ。地下水が消えたあとの石灰分だけが溶岩のように流れ出している空滝。岩天井からいくつも下垂した鍾乳石のつららや、サグラダ・ファミリアさながらの壮麗な岩の建造物などが次々と現れます。

 通路の途中に、ときどき狭い場所があったりして通れるのかと心配したりもしますが、そこを通過するとまた広い空間に出るとか、変化に富んでいて飽きません。洞内の照明に照らされた岩肌の色彩も千変万化で、比較的明るい場所もあれば、蝋燭で照らされた窪みのような暗い場所もあります。

 撮影した写真が手許にないので、洞窟内は撮影禁止だったような気がします。そうでなくてもASA100のフィルムカメラではうまく写らないでしょう。観光用の絵はがきは照明を当てているのだと思います。

 そうこうしているうち、時間がどれぐらいかかったものか…、一番奥まで行くと真っ直ぐなトンネルがあって、その向こうに椅子を並べた部屋がありエレベーターの入り口が見えました。それに乗ると秋吉台に出ます。

 

 秋吉台

 秋芳洞の奥から80mをエレベーターで上がると、一転して秋吉台の明るいカルスト台地に出ました。そこは日本最大のカルスト高原で、広大な台地には多くのドリーネが見られます。

 しかし高原に上がってもまだ、鍾乳洞内の暗黒の奇岩の影像や、そこに住む霊たちのさんざめく声が脳裏にこびりついたままで、しばらくはカルストの写真を撮るのを忘れていました。

 


 一枚だけ撮った秋吉台の写真  国民宿舎かな?

 秋吉台は標高200~400mのなだらかな高原で、総面積は130k㎡といわれ、昭和30年(1955)にはすでに国定公園に指定されて切手にもなっています。

 この秋吉台も春先には枯れ草の野焼きをしますので、生き物たちは大変で、山焼きには反対だという意見も聞いたことがあります。しかし、野焼きしたほうがカルスト台地の環境維持はもちろんのこと、生態系にとってもかえっていいのではないかとの考え方もあり、そのほうが管理に都合がいいのか、山焼きは現在も続けられているようです。

 

 秋吉台カルスト台地 当時の絵はがきから      (複製禁止)

 

 秋吉台は舗装されたドライブウェイが通っていて、秋にも高原の花々が楽しめるところです。



 漢陽寺(かんようじ)

 鹿野の漢陽寺へ行ったのは、それから7年ぐらい後だったと思います。

 漢陽寺山口県周南市鹿野(かの)にある臨済宗の寺で、鹿苑山漢陽寺と号し、南禅寺別格地の名刹(めいさつ)です。

 


 漢陽寺山門

 開創は長崎の諫早出身で帰朝僧の用堂明機(めいき)禅師大内氏の建立で、代々の祈願所だったといわれます。創建は山口市瑠璃光寺五重塔を造った大内盛見公とのこと。




 漢陽寺 曲水の庭園

 禅寺らしく、枯山水を取り入れた石庭がいくつかあります。
 しかし、石や砂だけでなく、池を残したものもあり、写真の石庭には曲水が流れていたように思いました。

 これらの庭は昭和を代表する庭園研究家・作庭家の重森三玲(しげもりみれい)が造ったもので、時代的にはまだ新しいものです。

 禅体験とともに、曲水の石庭精進料理を楽しみに訪れる観光客も多く、観光面でも県内では著名な禅寺です。

 訪れた頃は、まだ周南市ではなくて、都濃郡(つのぐん)鹿野町でしたね。