鄙乃里

地域から見た日本古代史

性空上人の夢と海の菩薩 普賢寺

 山口県光市の普賢寺は室積(むろづみ)の峨眉山(117m)北麓にある臨済宗の寺です。毎年5月14日,15日に行われる普賢大祭は、古くからの普賢市で知られ、光市で最もにぎわう祭となっています。

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 本尊の普賢菩薩は「海の菩薩」と呼ばれ、海難よけの守護仏として海上生活者の信奉が厚く、大祭には瀬戸内海沿岸の各地から数百隻の船が集まりました。

 

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多数(数百店)の露天商が店を出しています。
これは昔からの普賢市といって、雑貨や食べ物だけでなく、陶器から植木市まで多種多様です。

 

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 縁日の名物 普賢飴
 この飴は普賢飴といって、普賢市の名物になっているので皆さん買い求めています。

 

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 これからの暑い夏に備えて麦わら帽子には大勢の客が集まっていました。

 

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 これらの漁船も海上から普賢まつりにやって来たものでしょう。海上交通の守護仏なので、昔は各地の漁村から多くの船が祭りに集まっていたそうです。

 

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 奥に見えるのが二層の仁王門のようです

 

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 普賢菩薩

 普賢まつりは、普賢菩薩が祀られている普賢堂のお祭りです。

 縁起によると寛弘年間の一条天皇の御世に、天台宗の僧で播州書写山圓教寺姫路市)開山の性空上人が、遊女に身を変えた普賢菩薩の導きにより周防室積の地を訪れ、漁師が御手洗湾から引き上げた普賢菩薩像と対面したのが始まりと伝えられます。
 
 本尊の菩薩像は、当初は性空上人により大多和羅山(おおたわらやま、大峠大峰山)の庵に納められていたものが、参拝不便のためか、次の玄宥和尚の時に山麓の寺院に移され、さらに室町時代に現在地に移建して遷されたといわれています。
 
  開基である性空上人はその後播磨に帰り、その地で遷化(せんげ)されたそうですが、普賢まつりの日程は上人の命日に因んで5月14日を中心に3日間となっていて、安土桃山以後、江戸時代(旧暦3月11日~13日)から続けられているとのことです。

 ただし、現在の縁日は、毎年5月14日,15日の2日間になっています。
 普賢寺はもとは天台宗の寺でしたが、禅宗が日本に入ってきてから臨済宗に変更されたそうで、まァ…栄西禅師も、もとをいえば天台宗の流れなので。

 開祖の性空上人は山岳聖で書写山に入る前には、高千穂峰背振山比叡山などで修行したとされています。鹿児島県の霧島神宮は最初は高千穂峰と御鉢の間にあったものが噴火で焼けたため、性空上人が高千穂河原に再興しました。しかし、その後も火災のために何度か移設を繰り返し、最終的に東霧島神社と二つに別れて現在の霧島神宮になったと伝えられています。上人は、霧島神宮とも関わりがあるんですね。

 

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 普賢菩薩堂の前で

 香炉の前でお世話人さんが線香を売っているところ。一束20円。

 普賢寺は毛利氏の祈願寺でもあったため、横幕に毛利家の家紋が見えます。

 

 普賢菩薩文殊菩薩とともに釈迦如来の脇侍であり、悟りの知性的側面を表す文殊菩薩に対して、実践的な側面を表す菩薩とされています。

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 久原慶亮著『海の菩薩』光地方史研究会1962

 普賢菩薩は白象に乗った姿で表され、本尊の普賢菩薩騎座像は木造漆箔一材彫の装飾像で、白象の上の蓮華座に結跏趺坐(けっかふざ)し、合掌したお姿です。
 50年に一度の御開帳。次の御開帳は後ろへ還ったほうが早く、まだ何十年も先(2050年とのこと)なので、お姿を掲載させて頂きました。

 普賢寺から象鼻ヶ岬へ至る道は室積公園として樹林あり、石仏あり、史跡あり、山あり、海あり、波がくだける岩礁ありと見どころが多く、散策には最適な環境になっています。






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