鄙乃里

地域から見た日本古代史

公園散歩に思うこと

 気まぐれ随想録『赤とんぼ』


  公園散歩に思うこと 

  たまに暇ができると近くの公園を散歩している。この公園も以前は季節の変化が豊かで散歩もそれなりに楽しめたものだった。しかし、最近はそんな感じも少し薄れた。日常的に見慣れてしまうと気付かないのだが、全体として樹木に生気が見られなくなった。桜や欅など枝枯れがいくつも見つかる。春が来ると枝一面に花を着けていた白木蓮は、いつの間にか消滅している。寒気の中で凜と咲き誇っていた紅いサザンカの花も、今は心なしか燻っているように見える。

 この夏には以前よく訪れた山手の公園にも立ち寄ってみたが、こちらも敷地が一部切り取られて駐車場になり、以前とは様変わりしていた。

 ちょうど8月の暑い盛りでもあり、樹木が伸び放題で、元はきれいだったバラ園などは見る影もない。雑草のほうが主(あるじ)とばかりに花壇を占領している。

 以前に知人と写真を撮った小さな菖蒲園もなくなり、クジャクが尾を広げていた鳥小屋は、鳥が一羽もおらず、いつの間にか物置小屋に変わっている。ツツジの丘へ上がる小道も樹木が鬱蒼とした感じで「マムシ注意」の立て札があるのでは、誰だって登る気がしないだろう。

 真夏に樹木の手入れができないのは分かるが、それにしてもひどすぎる。以前は公園の隅々まで手入れが行き届いていて、草木にもすごく勢いがあったように思えた。そのころ仕事その他で体を壊していた自分は、この公園の起伏のある坂道を毎日のように速歩したおかげで、まずまずではあるが、その後の元気を取り戻させてもらったのである。

 ツバキやウメやコブシなど季節毎に咲いている花の場所や、林の中の小径まで、ほとんど全域を知り尽くしていたから、それぞれの開花期に合わせて、いくつかの散歩ルートを歩き分けたりもした。しかし、今は往時の生気が感じられず、公園全体が何となく放任状態というか、管理が不十分で、荒廃の印象はぬぐえないのである。

 このように、小さな樹木公園一つをとってみても、開園当初からの何年かは力を入れて手入れがなされているが、長期にわたる維持管理がいかに難しいかをよく物語っている。

 現在歩いている公園にもそれが当てはまる。もちろん市が委託した業者により季節毎の手入れは欠かさずに行われているが、どうしても潮風や排気ガス酸性雨などの目に見えない影響を受けるため、樹木は弱り、枯れ始めてくる。その点からも、とくに公園のような狭い場所の樹木には、きめ細やかな手入れや管理が欠かせないのである。

 季節毎の刈り込みや除草作業は人の目に見えるため実行されていても、土壌改良・施肥など目に見えない地味な作業は十分になされているのだろうか。風雨や虫害で折れたり枯れたりした疵口には防腐処理も必要だ。株元の土壌が雨で流されていないのか、根元周りは踏み固められないような対策が取られているのか。そうしたことまでは、散策して見ているだけでは十分に分からない。前の木が枯れたあとに、新しい樹木が植え替えられた形跡なども全然、認められないようである。したがって公園内は徐々にではあるが閑散とした雰囲気になってくる。

 一方で手入れしにくく放置された木の枝は伸び放題になる。とくにクレーン車を必要とする高い梢の部分などはそうである。それやこれやで、公園内の景観は次第に殺風景な感じに変化してくるのだろうと思う。花木にしても時季が来たから習性で咲いているだけのことで、季節を待ちかねて一斉に勢いよく咲くという感じではなくなってくる。

 こうした現象は公園だけの問題ではない。重要なインフラ等においても、メンテナンスが行き届かないために発生した重大事故はいくらでもある。外観の目視だけでは内部のクラックや腐蝕や不具合が発見されないケースが多い上に、作業の慣れや予算不足で管理が怠慢になり、手抜き工事や検査ミスが頻発する。そういう場所に限って事故が発生しやすいのである。「二度と起らないように」というのは、ほかに言葉がないから言うので、みなウソだ。

 最近は「レガシー」なる言葉も流行語のように使われているが、ただ完成時の美観や利便性を追求するだけで、維持管理のための長期的なプランや予算が十分に準備されていなければ、かえって余計な経済負担が増大するばかりか、将来に大きな禍根を残す結果につながってくる。それでもまだ重要インフラは定期的なメンテナンスが実行されていると思うが、予算と手が回らずに、先延ばしにされ放置されている老朽化設備は、社会にも家庭にも山ほど存在するのである。災害対策とともに近い将来の大問題になってくる。

 かにかくに物は思わじ飛騨人の打つ墨縄のただ一道に

との万葉歌もあるように、昔の匠は百年先・千年先を考えて今の自分の仕事に打ち込んできたといわれている。だからこそ、世界に誇れる文化遺産が日本の各地に残されているのだろう

 その時その場だけの見かけの完成度に満足するのでなく、長期にわたり真心を込めて計算された高品質の仕事こそが、成熟した国の「レガシー」なるものの、本来の姿なのではないだろうか。

 

 

 

                   

(平成30年12月9日の記事に補筆したものです)