大山祇神社を訪ねて ~続き~
宝篋印塔(ほうきょういんとう)
鎌倉時代重文の宝篋印塔。一遍上人の奉納と伝えられます。
踊り念仏で知られる一遍上人は河野氏の出(河野通信の孫通秀)。
説明板には一遍上人来島の時の奉納と書かれていますが、向かって左側の石塔には文保二年(1318)大工念心」の銘があるので、少なくともこちらは30年後に建立されているようです。念心は尾道の石工で、ほかにもいくつかの石造物を手がけています。
瀬戸内海のジャンヌダルク 鶴姫像
三島大祝家に生まれた鶴姫は大内義隆軍との3度の決戦に出陣し勝利したが、その合戦で互いに心を寄せ合っていた若者を喪ってしまった。一首の歌を遺した鶴姫は、その戦いのあとひとり沖に小舟を出し、そのまま波間に消えていったといわれる。
わが恋は三島の浦のうつせ貝むなしくなりて名をぞわづらう
瀬戸内海のジャンヌダルクともいわれ、悲哀の鶴姫伝説として伝えられています。
鶴姫が着用したのではないかと言われる女性用の鎧が宝物館に遺されていて、
毎年7月には鶴姫祭りが挙行されています。
海事博物館
昭和天皇の生物学研究に用いられた採集船「葉山丸」を保存しているほか、海洋生物の標本などがあります。
プロペラの説明板
海事博物館前のスクリューのことです。
海事博物館横の道
ここを下って行った道端だったかな? 鶴姫の像は。
大山祇神社宝物館の国宝館
おびただしい数の文化財が収蔵されています。とくに刀剣の類いは大小数知れず。
日本の武具の国宝と文化財の8割ほどが納められているそうで、多すぎて詳しく見られなかったですが、鎌倉時代にも源頼朝・河野通信・和田義盛の刀剣や武蔵坊弁慶の薙刀まで奉納されているとか。そのうち弁慶の薙刀があったのは覚えていますが、刀身だけだったような…。
大山祇神社宝物館の紫陽殿
国宝館とは廊下でつながっています。
紫陽殿のほうにも数々の重文が保存されています。鎧だけでも源義経が奉納した赤絲威鎧・大袖付(あかいとおどしよろい・おおそでつき)、源頼朝の紫綾威鎧大袖付(むらさきあやおどしよろい・おおそでつき)をはじめ国宝が4領。甲冑関係の重文が71あるとのこと。ほかに小品で目に付いたものに、白村江の戦いの前に斉明天皇が奉納したといわれる唐時代の禽獣葡萄鏡(国宝)や、天智天皇奉納の長命富貴鏡(神宝)があり、西征時に大三島に立ち寄ったことを窺わせます。斉明天皇と天智天皇(中大兄皇子)の奉納品は、遷宮前の迫戸浦(上浦町瀬戸)の横殿の時代になります。禽獣葡萄鏡(きんじゅうぶどうきょう)は遣唐使が持って帰ったものでしょう。
義経の鎧まばゆく緋縅しの真紅の糸もいまか燃ゆがに 吉井勇
話によると義経の鎧は、あの八艘飛びのものだとか。
国宝館前の紅葉
宝物館の受付窓口
入場券(有料)が必要です。館内は全面撮影禁止でした。
義経の鎧
神門に向かう石段(帰り)
石段下の向かって左側に伊藤博文公の記念樹があります。
神門前の御神木
「小千命御手植の楠」との説明板があります。
樹齢2600年以上とある。たしかに、古いことは古いですが…。
奥の院にも幹の下(洞)が参道になっている生樹の御門(いききのごもん)という二千年とも三千年ともいわれる大楠があるのですが、時間がないので見られなくて残念でした。
村上三島氏揮毫の石柱
神社前の案内板
神社の由緒や境内図が書かれていますが、この由緒は大山祇神社独自のもので、 『三島宮御鎮座本縁』や『予章記』の内容とは異なっています。理由は神社に聞いてみないと分からない。
伊藤博文公揮毫の石柱
こちらは伊藤公の手による神社名の石柱。
少し硬めですが、きちんと書かれていますね。村上三島氏と比べると、それぞれの時代や性格の特性がよく表れているようです。
しまなみ海道でいちばん長い今治市側に架かる橋で、島伝いに3つに分かれています。
大三島をはじめとする芸予諸島は、海山の自然に恵まれ、歴史とロマンを秘めている魅力的な島々です。
しまなみ海道は本四架橋で唯一自転車道があって、レンタサイクルもあり、国際的なサイクリストのメッカになっています。
ほかに四国では大鳴門橋の新幹線用の空間をサイクルロードにしようという計画もあるそうです。
大三島は出来ればもう少しゆっくりと廻りたかったですね。